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東京高等裁判所 昭和59年(う)1038号 判決

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、被告人提出の控訴趣意書及び同補充書(答弁書に対する反論書を含む。)並びに弁護人大塚喜一、同田中一誠、同渡辺眞次、同今村精一、同本木陸夫、同松本新太郎、同山下洋一郎、同四宮啓、同向井弘次及び同藤井一連名提出の控訴趣意書及び右各弁護人及び弁護人滝沢信連名提出の答弁書に対する反論書に、これに対する答弁は検察官須田滋郎提出の答弁書にそれぞれ記載されているとおりであるから、これらを引用する。

第一事実誤認、訴訟手続の法令違反の主張について

その論旨は、要するに、原判決は、被告人が昭和四九年一〇月三〇日午後五時二〇分ころ、千葉県市原市八幡北町二丁目七番六号の被告人の両親宅(以下「両親宅」という。)台所において、父佐々木守(以下「父守」という。)を、更に母佐々木あき子(以下「母あき子」という。)を殺害し、同年一一月一日午前五時三〇分ころ、右両親の死体を両親宅から市原市五井南海岸一番の二養老川河口公共物揚場第三岸壁まで運び、その死体を同所から海に投棄して遺棄したとの事実を認定している、しかし、右の認定には、多くの疑問があり、本件各犯行は被告人によるものではなく、父守及び母あき子は被告人以外の何者かに殺害され、その死体も被告人以外の何者かによって遺棄された合理的な疑いがあり、従って、被告人が父守及び母あき子を殺害し、その死体を遺棄したことについて、合理的な疑いを容れない程度に証明されていないのに被告人を有罪とした原判決の事実認定には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認があり、また、原判決の認定に添う被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書並びに被告人作成の各申述書は、その任意性に疑いがあるのに、これを証拠として採用し、事実認定に供した原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな訴訟手続の法令違反がある、というのである。

そこで、原審記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調の結果をも併せ、所論の点について逐次検討する。

一  被告人と本件犯行とを結び付ける客観的事実の存在

本件は、結局、父守及び母あき子の殺害並びに右両名の死体遺棄が被告人の犯行によるものであることについて、有罪認定に十分な証明がなされているか否かが問題とされている事案である。ところで、本件では、被告人の自白以外に、被告人と本件各犯行との結び付きを証明する客観的な事実が多数存在するので、まずその事実を示し、検討することとする。

1  父守及び母あき子の死体発見の状況並びに死体の状態

(一) 父守及び母あき子の死体発見時における状況

(1) 司法警察員作成の昭和四九年一一月一〇日付(二通)、同月一三日付各捜査報告書、同月二二日付写真撮影報告書、同年一一月九日付実況見分調書、平野隆道並びに吉野稔、桜井睦男、石田輝久生(同月九日付)の司法警察員に対する各供述調書によると次の事実が認められる。

昭和四九年一一月九日午後三時一七分、千葉港廃油処理場防波堤西一七〇〇メートル、市原航路第二灯浮標の南東六〇〇メートルの海上で、父守の死体が漂流しているのが発見された。父守の死体は、右足関節部に長さ約五メートルの麻紐一本が二重に巻き付けられて結節されており、その麻紐にはタオルケット一枚がからみ付いていた。同死体は、長袖ポロシャツ、作業ズボン、白長袖シャツ、白木綿モモヒキ、メリヤス灰色パンツ、深緑色靴下、胴巻を着用し、黒皮バンドはバンド通しに通されていたが、バックルは外されていた。また、胴巻には、千葉五五つ九一―五二と書かれたプレート及び自動車キー等の入っているキーホルダーが入っていた。同死体の頭部は広く腐敗剥離し、頭髪を付着せず、顔面は、巨人様に変貌し、眼球露出、表皮の腐敗剥離が甚だしく、腹部は膨満しているなど、全身の腐敗が高度であり、後記のとおり全身に多数の損傷が認められ、解剖時(昭和四九年一一月一〇日)、死後一〇ないし一四日を経過していると推定された。

(2) 司法警察員作成の昭和四九年一一月一〇日付、同月一五日付各捜査報告書、同月二二日付写真撮影報告書、同月一九日付実況見分調書、石田輝久生作成の死体確認書並びに中村賢二、稲葉博敏の司法警察員に対する各供述調書によると次の事実が認められる。

昭和四九年一一月一〇日午前一〇時四二分、千葉港廃油処理場沖合三〇メートル、養老河口灯台西方約三〇メートルの海上に浮遊していた母あき子の死体が確認された。同死体には腰腹部に毛布一枚が巻かれ、その上から、腰部及び下腹部を長さ約八メートル、太さ約一センチメートルの黒色と黄色の三本撚りになっているナイロンロープ一本で緊縛されており、また、両足首は長さ約六・二メートル、太さ約一センチメートルのマニラロープ一本で緊縛されていた。更に、これらのロープに貨物自動車用ホイルが結び付けられていた。同死体は、エプロン、半てん、セーター、コルセット、七分袖シャツ、ブラジャー、婦人ズボン、パンティストッキング、パンティ、靴下を着用し、コルセットの下に手拭一本が当ててあった。同死体の全身は腐敗膨満し、表皮は蝉脱状に剥脱し、両手掌、両足は漂母化し、全身に後記のとおり損傷多数が認められ、解剖時(昭和四九年一一月一〇日)、死後一〇ないし一四日を経過していると推定された。

(二) 死体解剖の結果

千葉大学医学部教授木村康作成の昭和五一年三月二七日及び同年一一月九日付各鑑定書並びに同人の原審における証言によると、以下の事実が認められる。

(1) 父守の死体には、頭部に四箇所(五一・三・二七付鑑定書イ、ロ、ハ、ニの刺傷、以下片仮名の表示は同鑑定書のそれによる。)、顔面に一箇所(ホ)、胸腹部に二箇所(リ、ヌ)、背部に二箇所(カ、ヨ)、上肢に一箇所(タ)及び下肢に一箇所(ソ)の刺傷が認められる(この他、顔面へに一箇所表皮剥脱が、頸部ト、チ、胸腹部ル、ヲ、ワ及び下肢レ、ツの合計八箇所に皮下出血が認められる。)。本屍の各刺創の損傷は、いずれも一方に正鋭な刃を有し、一方に角型をした刀背を有する片刃器の刺切により生前形成されたもので、その片刃器の作用する刀身の長さは一〇・〇センチメートル以上、作用する刀身の幅は約二・八センチメートル前後、作用する刀身の刀背の幅は〇・五センチメートル前後と推定される(表皮剥脱ないし皮下出血の各損傷は鈍器の打撲により生前形成されたものであるが、特定の鈍器を推定することはできない。)。死因は胸骨部並びに上腹部の刺創による心臓損傷と認められる。血液型はO型(同鑑定書によるとMN式血液型検査ではM型としているが、この点については、後記認定のとおり。)。

(2) 母あき子の死体には、頭部に一一箇所(五一・一一・九付鑑定書のロないしヲの刺創、以下片仮名の表示は同鑑定書のそれによる。)、頸部に六箇所(ワ、ヨ、タ、レ、ソ、ツ)、胸腹部に三箇所(ネ、ム、ウ)、上肢に四箇所(ナ、ヤ、マ、フ)、下肢に一箇所(キ)合計二五箇所の刺創ないし刺切創が認められる(その他、頭部イ、頸部カ、胸部ラ、ヰ、腰部ノ、オ、ク、上肢ケ、コ、エ、テ、下肢ア、サ、ユ、メにそれぞれ皮下出血が認められる。)。死因は胸部刺創ウによる出血死(心臓損傷)で、刺創(刺切創を含む。)は、作用する刀身の幅約三・二センチメートル、刀背の最大刃幅約〇・五センチメートル、作用する刀身の長さ約一四・〇センチメートル以上の片刃器の刺切により生前形成されたものと推定される(また、本屍の皮下出血は、いずれも鈍器の打撲により生前形成されたものであるが、特定の鈍器を推定することはできない。)。本屍の血液型はO型(なお、同鑑定書では、MN式血液型検査でM型を示したとするが、この点については後記認定のとおり。)。

2  両親宅の状況(犯行現場)

司法警察員作成の昭和四九年一一月五日付、同月二五日付検証調書、司法警察員作成の同月四日付捜査報告書(二通)、千葉県警察本部研究員久保田晶巳他一名作成の「検査結果について」と題する書面によると、以下の事実を認めることができる。

(一) 千葉県市原市八幡北町二丁目七番六号所在の両親宅を昭和四九年一一月三日及び四日に検証した結果、

(1) ①台所内の流し台、椅子及び安楽椅子、ガスストーブ、茶だんす、台所から廊下への出口付近の羽目板、床上、②廊下から洗面所に入る左側の柱、廊下床面、階段下押入のドアー、階段、③洗面所流し台、④浴室内の石鹸、ゴム長靴、浴室内入口のタイル、浴室前の廊下、浴室窓外側のトタン板、⑤事務所出入口のドアー、⑥作業所内スイッチ付近、⑦二階の階段踊り場、廊下、金庫の取っ手などに少量の血痕が払拭あるいは飛沫状に付着しているのが肉眼で発見されている。

(2) ルミノール発光試薬及びロイコ・マラカイドグリーン試薬を用いて血液の付着状況を検査した結果、①台所床、浴室入口及び浴室前廊下、洗面所流し台及び洗面所前床面、中廊下に広範囲に血液反応が顕著に認められ、これらの血液は、布などで拭き取られた形跡を残している。②台所床に素足の足跡痕血液反応多数が認められたほか、洗面所前、一階廊下、事務所、作業所、二階廊下、二階北側八畳の間、南側四・五畳の間に約二四センチメートルから約二五・五センチメートルの血液の付着した素足による足跡が多数鮮明に反応したことが認められる。

(二) 右血液の付着した同一人物のものと認められる足跡痕が、一階から階段、二階廊下を経て二階の両親の寝室内に置かれている金庫前に至っているのであるが、右金庫正面及び同金庫内のナップザックに血液反応が認められた。また、同室押入内の桟に打たれている釘に右金庫の鍵が一個掛けられており、この鍵にも血液反応が認められた。この鍵は、生前母あき子が細紐をとおし首に掛けて肌身離さず所持していたものである。右金庫を開扉して内部を検査すると、上段に黒色のナップザックがあり、その中に雑嚢(旧軍隊用)が入っていて、雑嚢の中には、実印、定期預金証書一二通(額面一五七八万三四五三円)、普通預金通帳六通(預金額合計二〇九万九五八九円)その他電話割引債権、小切手、指輪、印鑑等が入っていたほか、同金庫には腕時計、貴金属類、不動産契約証書などの書類が入っていた。しかし、同年一〇月三〇日午後五時ころ、母あき子は、裕子から「華紋」の従業員の給料のことで電話があった際、同月三一日に「華紋」に給料を持って行くと答えており、給料用の現金が用意されていたはずであるのに、金庫内には、めぼしい現金は発見されなかった。

被告人は、原審及び当審を通じて、事件当日の夜、母あき子が紐を通して首に掛けて所持していた右金庫の鍵で同金庫を開けて、同金庫内にあった現金を持ち出し、鍵は、紐を切って、鍵だけを押入内の釘に掛けておいたことを認めている。

3  被告人と各犯行との結び付き

(一) 既に認定したとおり、母あき子の死体を緊縛してあった前記ナイロンロープは、黒色一本と黄色の二本の三本撚りのロープであり、腰腹部に巻かれていた毛布は当時としては入手困難な旧陸軍用毛布であるうえ、相当使用されており、かつ綻びた縁を別布で繕いがなされているところの、いずれも特徴のある物件であることが認められるが、被告人の原審第二回公判における供述によれば、被告人は、母あき子の死体を緊縛していたマニラロープ一本、ナイロンロープ一本及び母あき子の死体に巻かれていた毛布一枚が両親の自宅にあったものであることを認めており、右ナイロンロープ及びマニラロープに結ばれ、死体を海中に沈めるための錘として用いられていたと思われる自動車用ホイル一個についても、そういう物が両親の自宅にあったことは知っているとし、ただ、これがそれであるかどうかは分からないと述べている。更に、原審証人石田裕子の供述及び同女の昭和四九年一一月一〇日付司法警察員に対する供述調書によると、父守の死体と共に発見されたタオルケット一枚は、両親の自宅にあった座椅子(安楽椅子)に敷いてあった記憶があり、前記マニラロープは同宅の倉庫にあったものと似ていると述べている。また、同女の同月一五日付司法警察員に対する供述調書によれば前記自動車用ホイルは両親の家の物かどうかは分からないが、同様の物が両親の自宅の車庫の東側隅に何個も置かれていたと述べているところ、司法警察員作成の昭和四九年一一月五日付及び同月二五日各検証調書によると、本件が発生した後、父守方車庫内を検証した結果、同所西南側の壁の釘に前記麻紐と同種の麻紐が掛けてあり、その隣の釘は、何も掛けられていない状態になっていること、また、同所東南側の壁に四本の釘が打たれていたが、北側の釘には何も掛けられていないこと、更に、その北側の柱の釘に前記ナイロンロープと同種の黒色と黄色で撚られたナイロンロープが掛けられていたこと、同所南側に大型自動車用ホイルが八個、普通自動車用ホイルが二個、それぞれ二個ずつ重ねて置かれていたことが認められる。これらの事実によると、前記タオルケット、マニラロープ、ナイロンロープ及び毛布は、両親宅にあった物であり、前記自動車用ホイルも同宅にあった可能性が高い。もっとも、麻紐については顕著な特徴のないもので、石田裕子の昭和四九年一一月一〇日付司法警察員に対する供述調書によると、同女も右麻紐を見ていないと述べており、客観的な確認を得ることはできないが、両親宅以外の物であるとの証拠もない。

(二) 司法警察員作成の昭和四九年一一月一三日付捜査報告書、同日付検証調書、同日付捜索差押調書、司法巡査作成の同月一四日付捜査報告書、千葉県警察本部研究員久保田晶巳作成の鑑定書並びに原審証人飯島悦の供述によると、以下の事実を認めることができる。

(1) 勾留中の被告人は、同月一三日、取調警察官に対して本件犯行に使用した凶器及び犯行時に着用していた衣服等を遺棄した旨申し立て、その遺棄場所を見取図を作成して図示した(ただし、右見取図に署名押印することは拒否した。)。そこで、担当警察官は、直ちに裁判官の検証及び捜索差押各許可状を得て、右見取図に基づき、被告人立会の下に、図示された遺棄現場を捜索した結果、その指示どおり、千葉市殿台一六五番地の一及び三付近の休耕田の、枯れた葦や枯草が覆茂った、市道から一メートル入った電柱の更に奥〇・六メートルの草叢に、ビニール手袋片方、バスタオル一枚、セーター一枚、シャツ一枚、ズボン二枚、白木綿ブリーフ一枚、靴下片方、茶色ゴム手袋一双、ライター一個及びちり紙若干がそれぞれ包まれていた国防色のアノラック一枚が放置されているのを発見した。

次いで、右衣類の包みが放置されていたところから右市道を越えた反対側約三〇メートルの地点の草叢の葦の根元に、登山ナイフ一本が、柄の部分約三センチメートルが土の中に入りこんだ状態で、刃を下にして投棄されていたのを発見した。

(2) 石田裕子の昭和四九年一一月一五日付司法警察員に対する供述調書によると、右セーター及びズボン二枚は被告人のものであり、右ライターは父守のものであることが認められ、また、被告人の原審供述によると、右アノラック、セーター、シャツ、ズボン二枚及び靴下片方は、すべて被告人のものであることを認めている。

前記のアノラックの背面上部及び右肩に多数、シャツの左右の袖及び全面に薄く、また頸部に若干の、格子縞模様のズボンの前後面に多数の、小豆色のズボンの左右両足に多数の、白木綿ブリーフの全面下部に多数の、靴下全体に薄く、ビニール手袋に微量の、バスタオルに若干のそれぞれ人血が付着していることが認められ、ビニール手袋は、O・MN型の、その他はいずれもO型の血液型(MN型血液検査の結果については後記認定のとおり。)を示している。

(3) 右登山ナイフを測定すると、刀身の長さは約一三・六センチメートル、刀身の幅は約二・六センチメートル、刀背の幅は約〇・五センチメートルで、父守及び母あき子の刺切創を形成する片刃器の諸元とほぼ一致する。

所論は、右登山ナイフには人血の付着が証明されていないこと、また被害者の各死体に見られる損傷の状態から、右登山ナイフが使用されたとすれば、先端に刃こぼれがあるはずであるのに、これが認められないことに照らすと、右登山ナイフを本件の凶器と認めることはできないと主張する。なるほど、警察庁技官山本茂作成の昭和五二年六月七日付鑑定書によると、右登山ナイフについて、ヒト血液の付着を証明することができなかったと鑑定している。しかし、原審証人木村康の供述並びに市原警察署長作成の鑑定嘱託書及び電話聴取書によれば、右登山ナイフに少量であるが人血の付着が認められたとしており、右登山ナイフは発見の経緯に照らすと、被告人が人血の付着していた着衣等と共に所持していたものであることは明らかであり、投棄前に被告人が付着血液を水で洗い流すことができたし、投棄後の降雨に曝されて洗い落される可能性もあるのであるから、少量の人血の付着しか証明されないとしても、本件犯行との結び付きを否定するものではない。また、右登山ナイフには刃こぼれが認められないことは、所論の指摘するとおりである。しかし、右登山ナイフをつぶさに観察すると、その先端は尖鋭ではあるが、登山用に作られたものであることからも明らかなように、一般用の刃物に比し、登山等の場合の諸作用に応じられるようにかなり頑強に作られていることが認められる。従って、人の頭蓋骨その他骨等を十数回突き刺したとしても、容易に刃こぼれが生ずるようなものではない。当審証人木村康は、父守及び母あき子の損傷状態からすると、それらの損傷に登山ナイフが用いられたとすれば、先端に刃こぼれが生じうると供述しているが、右は同証人が、本件登山ナイフをつぶさに観察した上での供述ではないうえ、たんなる一般論的な供述であるばかりでなく、それも登山ナイフの構造用法からの経験則を無視したものであって、直ちにこれを採用することはできない。

(三) 石田裕子の昭和四九年一一月一六日付及び石田輝久生の同月一八日付検察官に対する各供述調書、司法巡査及び司法警察員各作成の同月二日付捜査報告書、被告人作成の同日付任意提出書、司法警察員作成の領置調書、千葉県警察本部研究員一杉潤作成の鑑定書並びに原審証人石田裕子、同石田輝久生の各供述によると、以下の事実を認めることができる。

昭和四九年一一月一日、被告人が父守所有の黒色乗用自動車(ニッサングロリア千葉五五―つ九一五二)を運転して千葉市殿台八〇番地の一所在レストラン「華紋」に行き、同店前に右自動車を停車していたところ、姉石田裕子がたまたま右自動車のトランクを開けると、トランク内のシートや毛布の下にポリバケツ一個があり、不審に思って夫輝久生を呼び、同人がその蓋を開けて中を見ると、多量の血液が付着しているタオル四本、ビニール製ござ一枚、座布団一枚が入っているのを発見した。右ポリバケツは、輝久生夫婦が昭和四九年一〇月三一日、両親宅の勝手口から中に入る際、踏台にしたもので、同宅にあったものであること(被告人の原審及び当審供述によると、右ポリバケツは、被告人が、市原市内で購入したもので、両親宅にあったものとは異なる物であるというが、被告人がポリバケツを購入した理由やその場所についての説明が極めて曖昧かつ不自然であって、到底信用することのできないものである。)、右ござは同宅台所に敷いてあったものであること、右座布団も同宅台所の座椅子の上に載せてあったものであること、右タオルのうち三枚には父守の経営する八幡タイヤの名が入っていることが認められる。右タオル、ビニール製ござ、座布団に付着している血液の血液型はO型を示している(なお、MN型血液検査の結果については、後記認定のとおり。)。

(四) 原審証人島田信夫の供述並びに三谷信子の検察官に対する供述調書、松沢すゞ、花本譲介、藤田美子の司法警察員に対する各供述によると、以下の事実が認められる。

(1) 被告人は、同年一〇月三〇日午後七時過ころ、千葉市寒川町所在の島田薬局において、左手小指の治療のため、ゲルミチン軟膏と包帯を購入し、傷口に薬を塗布して包帯を巻くなどの治療をしている(原審証人今泉明の供述並びに司法警察員作成の身体検査調書及び司法巡査作成の同年一一月一六日付捜査報告書によれば、同年一一月九日の身体検査時、被告人の左手掌の小指に一一針も縫合された約四センチメートルの弁状創が認められており、右損傷の成因は特定できないが、前記登山ナイフによっても可能な形状をしていることが認められる。)。

(2) 次いで、同日午後七時四〇分ころ、千葉市栄町所在の丸子洋服店に現れ、ズボン一本、カーディガン一枚、長袖スポーツシャツ一枚、パンツ一枚、靴下一足を購入し、近くの東京堂靴店で革靴を購入し、再び丸子洋服店に引き返し、先に購入した衣服と着替えている。

(3) 被告人は、その後三谷信子を電話で呼び出し、同日午後八時三〇分ころ千葉市春日所在割烹「すずき」で同女と一緒に食事をした際、ズボンのポケットから一万円札六〇枚位、五千円札二枚位、千円札八枚位を取りだして同女に見せ、「欲しいものがあったら買ってやる。」と言っていたことが認められる。

4  両親及び被告人の現場所在等

(一) 父守及び母あき子の所在及びその死亡日時

石田裕子及び石田輝久生の検察官に対する各供述調書、安井俊往、斉藤圀雄、岡本温男、大野光行、安井実和子、元良潔(四九・一一・一九付)、増谷喜弘、都倉真由美、石毛俊雄の司法警察員に対する各供述調書によると、以下の事実が認められる。

① 昭和四九年一〇月三〇日午後三時三〇分ころ、都北運輸有限会社運転手石毛俊雄が、市原市八幡北町二丁目七番六号佐々木守方(両親宅)八幡タイヤに自動車のパンク修理に行き、同人及び母あき子にパンクの修理をしてもらい、同日午後四時二〇分ころ修理が終って八幡タイヤを出たとき、父守は同店の事務所にいたのを確認している。

② 同日午後五時ころ、元良潔が「ふるさと」食堂の厨房から佐々木守方を見たところ、同人方では既に表のシャッターを閉め、母あき子が水槽の周りを掃除していたのを目撃している。しかし、同日午後五時一〇分ころ、名鉄運輸株式会社事務員都倉真由美が、修理代金を支払うため八幡タイヤに立ち寄ろうとしたが、すでに、店のシャッターは全部閉めてあり、事務所にも人影はなかった。

③ 同日午後五時ころ、石田裕子が、「華紋」から同店の従業員の給料のことで両親宅に電話した際、父守、母あき子ともに電話に出たので、三一日に支払う給料の話をし、これに対し、両親は、三一日にお金を持って「華紋」に行くという返事をしている。

④ 両親宅の隣に所在する有限会社市原自動車板金工業の経営者安井俊往及びその妻や従業員大野光貴らは、同日午後五時一〇分ころ仕事を終えて雑談していると、午後五時二〇分ころ、両親宅の勝手場あたりから「ギャー」という悲鳴(男の声か女の声かわからない。)とともに、椅子かテーブルの倒れる「ガタン、ゴトン」という音がしたのを聞いた。

⑤ 石田裕子は、同日午後五時五〇分ころ、「華紋」で使用していた自動車サニー・バンのバッテリーがあがり、使用できなくなったので、両親に連絡するため、同店から両親宅に電話したが、電話に誰も出なかった。その後も同日午後一一時ころまで夫輝久生と交代で約一五分おき位に十数回に亘り電話したが、誰も電話に出なかった。

⑥ レストラン京千の専務増谷喜弘は、同日午後六時三〇分ころ外出先から帰ると、伝言があったので、同日午後七時少し前両親宅に電話したところ、電話の信号は通じていたが、誰も電話に出なかった。約五分程たってもう一度電話したが同様に誰も出なかった。

以上の事実によると、父守及び母あき子は、同日午後五時ころには、両親宅に現在していて、生存していたことは明らかであるが、同日午後五時二〇分ころ両親宅において、悲鳴が聞えた以後、父守及び母あき子の姿ないし電話の応答等、その生存を確認する客観的事実は認められていない。なお両親宅以外の場所において右時刻以後に父守又は母あき子が現在ないし生存していたことを疑うに足りる証拠や形跡は全くない。

(二) 被告人の現場所在

石田裕子、石田輝久生、三谷信子の検察官に対する各供述調書、伊藤しげ子の司法警察員に対する供述調書によると、以下の事実が認められる。

① 被告人は、同月三〇日午前一時過ころから、被告人の借りていたアパート早川荘で三谷信子と過ごし、同日午前四時ころ同アパートを出て、タクシーで同女を同女方近くまで送った後、そのタクシーでいずこかに行った。

② 八幡北町町内の伊藤しげ子が同日午前一一時五〇分ころ町内会費を取りに両親宅を訪れた際、被告人が同宅作業場あたりに立って、ぶらぶらしていたのを目撃している。

③ 前述のとおり、裕子が、同日午後五時ころ両親宅に電話し、両親と話した際、母あき子が裕子に「今日、哲也が来たよ」と言っていた。

④ 同日午後六時三〇分ころ、被告人が三谷に「今、市川の友達のところにいるが、今からそっちへ行くから」という電話をしている。

⑤ 前述のとおり、被告人は、同日午後七時過ころ、千葉市寒川所在島田薬局において軟膏と包帯を購入して指の治療をし、同日午後七時四〇分ころ千葉市栄町所在丸千洋服店でズボン等を購入し、着替えをしている。

右認定のとおり、被告人は、同日午前四時ころ、三谷方近くで同女と別れてから、同日午後七時過ころ島田薬局に現れるまでの間、被告人が両親宅以外に所在していた事実は確認されていないこと、昼間、両親宅にいたのを目撃されていること、母あき子の電話の内容、薬局や洋服店等に現れたときの被告人の様子からすれば、その間、被告人は両親宅にいたものと推定される。

被告人は、原審及び当審公判廷を通じて、三〇日は、早朝から午後七時ころまで、午後五時少し前から午後五時三〇分ころまでの間両親宅を出ていたのを除いては(この外出していたと称する時間帯及びその間の被告人の行動に関する供述はすこぶる曖昧であって、当審では結局外出していたという時間帯については、時刻を特定できずに終っていて、その信用性のないことを物語っている。)、終始両親宅にいたことを認めている。

5  犯行の動機・原因となる事実及び事件発生前後の被告人の言動

(一) 事件発生前の被告人の言動

石田裕子、石田輝久生、三谷信子の司法警察員及び検察官に対する各供述調書、鈴木宏子、山本康夫、龍崎博光、松井巳之吉、斉藤広治、大友優志、中村岩次、信太さち子、若林文雄、川島一巳、日山賢、金沢昇、川口龍太郎、萬崎久枝の司法警察員に対する各供述調書、司法警察員作成の昭和四九年一一月二九日付捜査報告書によれば、被告人は、昭和四六年三月、千葉県立千葉高等学校を卒業したが、同高校の成績が芳しくなく、大学進学を諦めたものの、確たる進路を見付けることができないまま、卒業後、一時予備校に通い、やがて両親が自宅で営むタイヤ修理業を手伝うこととなった。しかし、被告人は、文学や演劇に興味を持ち、家業の手伝いに身が入らず、しばしば、両親との間で意見の対立があった。両親が昭和四九年八月千葉市殿台でドライブイン「華紋」を開店し、経営するようになってからは、被告人は、同店に寝泊りして仕事を手伝っていたが、素行の良くない従業員に誘われて遊興を覚え、家出をするなどしているうちに、同四九年五月ころ、千葉市栄町の特殊浴場「天城」で働いていた三谷信子と知り合い、親密な関係に陥り、その後、同女に内縁の夫がいることを知りながら、毎日のように同女と会い、その都度現金一万円を渡すなど金銭を貢ぎ、同女の関心を引き、更に同年一〇月には、両親に内緒で、同市稲毛東にアパート早川荘を借り、多額の金銭を費して冷蔵庫や家具類を備え付け、同女との交際を続けていたところ、両親がこれを知り、三谷が特殊浴場で働いていた女性であることや、被告人が金遣いが荒くなり、仕事に身が入らなくなってきたのを心配し、同女との交際をやめるよう口繁く注意していた。

同年一〇月二九日夜、両親が「華紋」に来た際、同店に三谷から被告人に電話がかかってきたのを、母あき子が電話口に出て応答し、被告人に電話を取り次がないで、電話を切ってしまい、被告人の問いに対し同人への電話ではないと言ったことから、被告人が母あき子に対して「俺にかかってきた電話を何故取り次がなかった。親にそんなことができるか。」などと怒鳴り、激しく非難した。これに対し、父守が被告人に「お前は騙されている。そんな水商売の女と付き合えばどんなことになるかわからないから、付き合うな。」と厳しく戒めたが、聞き入れないばかりか、被告人が居室として使っていた部屋で、被告人が父守の胸を強く突き、ベッドの上に押し倒すなどの暴力を振るった。結局、被告人は輝久生や従業員に取り押えられ、ようやくその場は収まったが、父守は、被告人に対し「お前とは今日限り縁を切るから出て行け。」「自動車のキーも出せ。」と言って、被告人が乗用していたシルバーメタリック色乗用自動車(ニッサングロリア千葉五五に七七五三)のキーを取り上げた。被告人は、同車から三谷の靴等の入っているナップザックを取り出し、「華紋」を出て、三谷を呼び出し、スナックや同女方で過ごした後、翌三〇日午前一時ころ、二人で「華紋」に来て、同店の従業員に、自動車はどうしたか尋ねたところ、両親が何処かに持って行ったと聞かされ、立ち去った。被告人と三谷は、その後は早川荘で過ごしたが、被告人は父守を殴ってしまったと言って意気悄沈しており、三谷から両親に謝るように勧められた。

(二) 事件発生後の被告人の言動

石田裕子、石田輝久生及び三谷信子の司法警察員及び検察官に対する各供述調書並びに、宮本きよ子、三枝ゆき子、青木洋子、原田准、工藤鉄夫、唐鎌一元、雁金敏子、黒川亥三、高岡武夫、佐川浩、片岡とき子、加藤善市、山本康夫、吉野政枝の司法警察員に対する各供述調書、征矢登美雄作成の答申書、高橋俊郎作成の回答書、伊藤三雄、都知木照繁各作成の答申書、司法警察員作成の同年一一月六日及び同月一〇日付各捜査報告書によると、事件後の被告人の言動について、以下の事実が認められる。

(1) 昭和四九年一〇月三〇日の行動

午後七時過ころから午後八時過ころまで、前記認定のとおり、薬局で左手小指の傷を治療したり(この傷について丸千洋服店の花本譲介には「鉄板で怪我した」と述べている。)、洋服店、靴店で衣服、靴などを購入して、着用していた衣服等と着替え、靴も履き替えた後、千葉市弁天町スナック「あじさい」に行き、電話で三谷を呼び出し、午後八時三〇分ころ同女と二人で同市青日所在割烹「すずき」で飲食した。このとき、被告人はズボンのポケットから一万札六〇枚位、五千円札二枚位、千円札八枚位を取りだして同女に見せ、「欲しいものがあったら買ってやる。」と言った。また、左手小指に包帯を巻いていた理由について「市川でタクシーに乗るときドアーにひっかけて怪我した。」と説明していた。

(2) 同月三一日の行動

① 同店を出て近くの喫茶店に入り「華紋」に電話し、次いで、同市栄町所在バー「槙」で飲食し、右「槙」のママとホステス及びバーテンを誘って、翌三一日午前一時三〇分ころ、同市新宿町所在ナイトレストラン「マキシム」に行き、同所で午前四時ころまで飲食し、その後、被告人と三谷は同店で一緒になった友人の則子のアパートで休んだ。同日午前七時三〇分ころ、右則子のアパートを出て、三谷と別れた。

② 午前九時ころ、同市道場北二丁目所在の唐鎌方を訪ね、同人から借用していた二〇万円に利息一万円をつけて返済し、約一時間同人方にいて、唐鎌の車で京成千葉駅前まで送ってもらった。

③ 同市本千葉町所在の平和相互銀行千葉支店で田中一郎名義の普通預金口座を開設した。

④ 午前一一時三〇分過ころ「華紋」に帰ったが、輝久生夫婦が両親宅に行ったと聞き、「何故八幡の家に行ったんだ。」と怒りながら慌ててタクシーを呼び、両親宅に行った。途中何度も「急いでくれ。」と言って急がしていた。姉裕子は、宮元から被告人が両親宅にとんで行ったときき、被告人は普通午後二時ごろにしか起きないのに、この日は早く起きて両親宅に行ったことを、おかしいなと思っている。

⑤ 両親宅の隣家「ふるさと」食堂で電話を借りて姉裕子に電話をし、裕子からすぐ帰れと言われ、午後一時ころ「華紋」に帰って来た。裕子から二九日当時の服装と違っているのを問い質され、「昨夜雨で濡れたので買って着替えた。」と言っており、また、左小指に包帯をしているのを尋ねられたのに対して「本箱で切った。」と言っていた。

⑥ 被告人は、「華紋」で従業員の給料の計算をし、女子従業員だけに給料を支払うことにし、ウエイトレスの宮元に七万五〇〇〇円、曽根に八万円を支払ったが、右給料の内一五万円は被告人手持ちの金で支払い、その金は母あき子から手切れ金としてもらったと説明していた。

⑦ 午後一時三〇分ころ、唐鎌と食事に行くと言って「華紋」を出て行き、午後二時三〇分ころ「華紋」に戻り、午後五時ころ修理の終ったサニー・バンを運転して両親を千葉市内に探しに行くと言って出かけた。そのころ、同市稲毛東所在の丸千興業に行き早川荘の家賃を支払っている。

⑧ 午後六時一〇分ころ、再び「ふるさと」食堂に行き、従業員の甲地正志に「両親から何か連絡がありませんでしたか。」と尋ねたところ、同人から「一〇月三〇日午後八時少し前母あき子が御飯を買いに来て、三〇〇円出したが、一〇〇円しかもらわなかった。」との話しを聞いた(もっとも原審証人甲地正志の証言では、弁護人の「三〇日午後七時すぎころあき子が飯を買いに来たと言ったのではないか」との問いに対し「そうです」と答えているが、これは明らかに誘導であってその時刻に関しては措信できない。)。また石田輝久生は、一一月一日朝被告人から「ふるさと食堂では三〇日午後七時三〇分ころ母が食堂に飯を買いに来たと言っている。」旨を聞かされている。

⑨ 被告人は両親宅の隣家の市原自動車板金工業の安井俊往に同日午後六時三〇分ころ「悲鳴をお宅で聞いたという話を姉から聞いたが、詳しい話を聞きたいので、今から三〇分くらいしたらお伺いします。」と電話したうえ、午後七時ころ右安井方に一人で行き、悲鳴を聞いたという状況を同人から直接聞いている。その際被告人は安井に対し「俺は朝からいたけど夕方になると両親の店仕舞いの手伝をやらされるので午後四時三〇分ころには家を出た」と弁解しており、安井の眼からみて被告人は両親がいないのに平然としている態度であった。

⑩ 午後八時三〇分ころ、ライトバンを運転し、三谷方近くで同女と落合い、汐見ヶ丘病院に行き左手小指の治療を受け、傷口を縫合してもらい、その後、割烹「あじさい」に行き食事をしたが、従業員を送っていかなければならないと言って、午後一〇時三〇分ごろ同店を出て、三谷と別れた。

⑪ 「華紋」に帰ると店の手伝いをし、ウエイトレスの鈴木に一〇月分の給料三万五五〇〇円を支払い、午後一一時ころライトバンで従業員を送った後、「今晩八幡の家に泊る。」と言ってライトバンに乗って「華紋」を出た。

(3) 同年一一月一日の行動

① 前日午後一一時三〇分ころ、再び三谷と、同女方近くで落合い、千葉市緑町所在の料理店「成川」で食事をし、京葉道路武石インター近くのホテル「トラベルロッジ」で翌一一月一日午前零時四二分ころから午前三時一〇分ころまで休憩し、同ホテルを出て被告人の運転するライトバンで三谷を同女方近くまで送り、別れた。

② 一一月一日午前七時ころ、「ふるさと」食堂の主人元良潔が表にごみを捨てに行ったところ、被告人が両親宅の庭先に立っていたので、「電気がついていたが、誰がつけたのだ。」と尋ねると、「ああ、電気は俺がつけた。夕べ泊ったんだ。」と言っていた。山口豊明が同日午前七時三〇分ころ両親宅に電話したところ、被告人らしき者が出て「昨日から休んでいる今日も休みだ。」と答えた。

③ 同日午前九時ころ、父守の乗用していた黒色乗用自動車に乗って「華紋」に現れ、「夕べは、八幡の家に行き、一晩中見張りをしていた。トイレの中もよく見た。」と言っていた。輝久生が被告人の乗って行ったライトバンがないと困るということから、午前一一時ころ、右黒色乗用自動車で被告人と輝久生が両親宅にライトバンを取りに行った。

④ 被告人は両親の家に着くとすぐ、隣家の安井俊往方を訪ね、同人に両親の手掛かりがなく、わからないがどうしたらよいかと相談をし、更に、同人を両親宅に連れて行き家の中を見てもらい、同人に両親宅は別に変ったことがないと説明していた。その際安井から「一〇月三〇日午後五時二〇分ころギャーッという大きい声がした、そのあと椅子が倒れるような音がした。」と聞かされている。被告人は輝久生に「父母は私の自動車で行って交通事故に遭ったかもしれない、自動車が崖から落ちてしまえばわからない」と喋り、輝久生や安井が「捜索願を出したがよい。」とすすめたのに「そのうち両親が来るかもしれない。」と述べて、捜索願を出そうとする態度ではなかった。その後被告人は又ふるさと食堂に行っている。輝久生は銀行に用事があるといって、ライトバンに乗って先に帰り、安井も午後一時三〇分ころ作業所前で被告人と別れて自宅に帰った。

⑤ 被告人は、千葉市新町所在の常陽銀行千葉支店において平井裕子名義の普通預金通帳(右預金者の住所は両親宅と同住所の八幡タイヤとなっている。)及び同名義の印鑑を持参して、同預金から二〇万円を払い戻した。

⑥ 被告人は、午後三時ころ右黒色乗用自動車に三谷を乗せて勝又自動車教習所に連れて行き予約手続をした後、同女に「福井に行かなければならないので、しばらく会えないかもしれない。」と言って五万円を渡し、更に、千葉市中央所在の勉強堂本店で一七万円のネックレスを買い与えた。

⑦ 被告人は、午後四時三〇分ころ、右黒色乗用自動車に乗って「華紋」に戻り、「昨晩全然寝ていない」と言って同店の事務室隣の部屋で寝ていたところ、姉裕子は二九日に両親が、右黒色乗用自動車のトランクに貴重品などを入れたリュックサックを収納したことを思いだして、同日午後五時三〇分ころ合鍵で同車のトランクを開けたところ、グリーンのシートと赤の毛布の下にポリバケツがあり、その中に両親宅にあった座布団が入っていて、それに血が付いているのを発見し、輝久生を呼んで更に中を調べたところ、その他ござ及びタオルが入っていて、いずれも血が付いていたので、被告人を呼んで説明を聞いたところ、「知らない。」と答え、裕子が「若し、両親が喧嘩して傷付け合ったのなら、そんな物を置いておいて逃げるようなことはしない。血の付いたものを早く警察に届けた方がよい。」と勧め、輝久生も同意見であったが、被告人は「世間体もあるから届けるのをもう少し待ったがよい。」と言って応ぜず、被告人の友人が検察庁に勤めているからその人のところに行って相談すると言い出し、被告人と輝久生でその友人を訪ねたが留守であったので、千葉中央病院に行き、ござ等を検査してもらったが、被告人は殊更に警察に届けることを避けている様子であった。

⑧ 被告人は、午後八時ころ、両親が入院しているかもしれないから探しに行くといって、車に乗って「華紋」を出て行ったが、三谷と会い、車で東京まで遊びに行き、その晩は、二人で千葉市内のトラベルロッジに泊った。

(4) 同月二日の行動

① 被告人は、同年一一月二日午前四時ころ、トラベルロッジを出て、三谷を同女の家近くまで送り、同女と別れた。

② 午前一一時ころ、前記常陽銀行千葉支店で、前記平井裕子名義の普通預金通帳から三〇万円を払い戻した。

③ 警察に届け出るように裕子に言われていたので、被告人は同日正午ころ、輝久生に付き添われ、右黒色乗用自動車に乗り、前記の血の付いたござ等の入っているポリバケツを積んで、両親の捜索願を出すため市原警察署に行き、同日午後零時三五分ころ婦人補導員吉野政枝、巡査部長池田利雄に両親の家出の状況を説明し、家出人捜索願の届をしたが、家出の日時を一〇月三〇日午後七時ころとして届けた(司法警察員池田利雄作成の「家出人届出状況」及び吉野政枝の司法警察員に対する昭和四九年一一月六日付供述調書同添付同年一一月二日付「家出人手配簿」(写)によって認められる。)。その理由として前日の二九日に親子喧嘩をしたこと、三〇日夕方隣家の市原自動車板金の人達が夫婦喧嘩らしい声を聞いたこと、室内が荒されていないし、鍵が掛っていること、車が一台なくなっていることから家出したのではないかと思うとの申し立をしている。しかし、その捜索上の最も手掛かりとなるはずの血痕の付着したござ等の入っているポリバケツは、わざわざ黒色乗用自動車に積んできたのに敢えて提出しなかった。帰宅途中、輝久生が被告人にそのことを問い質したところ、「もし、両親のどちらかが傷付いたら刑務所に入らなければならなくなり、世間体もあるから届けなかった。後で姉と相談して決める。」と言っていた。

④ 「華紋」に帰ってから姉裕子にポリバケツに入っている血の付いた品物を警察に提出しなかったのが知れ、被告人は、午後五時五五分ころ再び市原警察署に出頭して、当直勤務の警察官に「両親がいなくなってしまい、昼間捜索願の届を出したが、何か変ったことがあったら当直に引き継いでおくからといわれ、本日午後五時ころ血の付いた品物を父の車のトランクの中から発見したので、その血液が人の血であるか、古いものか調べて下さい。」という趣旨のことを申し出たうえ、同署玄関前に駐車しておいた黒色乗用自動車まで警察官へ案内し、トランクを開けて、タオル四枚、ござ一枚、座布団一枚の入ったポリバケツを任意提出した。

6  以上認定の被告人と本件各犯行との結び付きを証する客観的事実を総合して判断すると、次のような結論に達する。すなわち、

(一) ①昭和四九年一〇月三〇日午後五時ころ以降、両親宅には父守及び母あき子並びに被告人が現在し(被告人が同日午後五時三〇分ころまで両親宅を出ていて、不在であったとする点は、採るを得ない。)、かつ、右三名以外の者は所在していなかったこと、②父守及び母あき子は、五井岸壁沖の海中で死体として発見されたとき、いずれも作業着ないし普段着のままであったこと、また、両死体を縛るなどに用いられていた毛布、タオルケット、ロープ類及び自動車用ホイルなどは、全て両親宅にあった各物件が使われていたと断定できることから、最初から両親の死体を海中に投棄する目的で、これらの各物件とともに、父守及び母あき子の死体が両親宅から運び出されたと認められる。これらの事実は、父守及び母あき子が、両親宅で営業しているタイヤ修理業の仕事を終えて間もない時刻ころに、同宅において、相前後して殺害されたことを推定することのできる有力な証拠となるものである。すなわち母あき子は行方不明になったのでも、他所で殺害されたものでもなく、正に父守と相接して殺害されたと認めることができるものである。③殺害時刻は、隣家の人が、両親宅で「ギャー」という悲鳴と、椅子などの倒れる音がしたのを聞いた同日午後五時二〇分ころであると認められるところ、その時刻に父守及び母あき子を殺害する機会を持つ者としては、父守若しくは母あき子のいずれかが母あき子若しくは父守を殺害し、その後、いずれかの生存者を被告人が殺害するか、あるいは、被告人が父守及び母あき子を殺害する以外にはありえないのであって、父守及び母あき子を被告人以外の第三者が殺害するか、あるいは、父守若しくは母あき子が母あき子若しくは父守を殺害し、その生存者を被告人以外の第三者が殺害し、かつ、両名の死体を両親宅から右各物件とともに運び出す機会をもつ者は、想像上のこととしては考えられるとしても、証拠上全くその可能性は認められない。

しかも、原判決挙示の各証拠及び当審証人石田裕子の供述によれば、父守及び母あき子は、結婚以来、終戦後の混乱時期を手を携えあって乗り越え、二人で協力して、孜々営々として、爪に火をともす如く、節約と勤勉によって今日の財をなした、温厚、実直な人柄で、事件当時は、タイヤ修理業の経営も安定し、老後のために始めた飲食業の「華紋」の経営は必ずしも安定しているとはいえないにしても、娘夫婦の協力で一応軌道に乗っていたのであり、その夫婦の間は娘裕子が羨む程の仲の良さであって何をするにも形影相伴うように行動を共にしていたものであり(娘裕子は当審で、両親について「どっちかがけがすれば、あの人たちはくっついてゆくあれのほうだから」と述べ、「そんなに仲いいの」の問いに「はい。何でも言ったらつうつと通じている間でしたから。だから一人が反対すると、また一人が反対するくらいで」と述べ、だからかりにどっちかがけがしていれば、二人そろって病院に行ったであろうことを肯認している)、父守夫婦の共通の悩みは、専ら被告人の素行や三谷との交際にあったもので、それとても親の情愛から発した憂いであって、夫婦相互間に互いに憎しみ合い、それも一方が他方を殺害するに至るような確執の存したことを肯認するに足りる事情動機は全然認められず、当日は、父守夫婦はいつもと変らず家業に従事し、午後五時ころ裕子が両親に電話した際も、父守及び母あき子が電話口に出て、平生と変らない普通の音声語調の会話を交わした直後、前記の「ギャー」という悲鳴が発せられていることなどを合わせ考えると、父守夫婦間で殺害が行われるような異常な事態が出現する原因はその直前まで何一つ見出すことができない。また、父守及び母あき子の死体にある前記の多数の刺切創は、同一犯人による同一片刃器によって成傷されたと推認され、しかも、その部位、回数から執拗かつ残忍な方法で殺害されたものであることを物語っているのであって、父守又は母あき子の一方が他方を殺害した後、その生存者が他の者に殺害されたというような状況では決してない。

一方、被告人についてみると、①両親との間に、深刻な対立があったこと、②事件発生直後、左手小指に一一針の縫合をした弁状の創傷を負っていることが確認されているがその理由は転々として至極曖昧であること、衣服を一式買い求めて着替えをしていること、その直前まで手元不如意であったのに、事件当夜六十数万円もの大金を所持するに及んでいるのであるが、犯行現場である両親宅二階には、母あき子が首に下げていた金庫の鍵を使って二階押入れの金庫が開けられたことを示す血の付着した足跡痕、血液痕が多数残されていること、③被告人は、事件発生後、父守及び母あき子殺害の凶器と符合する被告人所有の登山ナイフを、千葉市殿台地内の草叢に投棄していること、同じく、血液の付着した着衣を同所付近に投棄していること、両親宅の台所の床、一階廊下などにおびただしい血液が付着しているのを布等で拭き取った形跡があり、また台所の流し台、調度等のほか、洗面所、風呂場等に血液の付着が認められるところ、両親宅にあったポリバケツに血液の付着しているタオルや、同宅台所にあった血液の付着しているござ、座布団を収納して自動車に積み込み持ち歩いているにかかわらず、しかも市原署に両親の家出人届をしに行った際、その最も重要な手がかりになると思われる右物件を、あえて同署に直に提出しないという、真犯人でないならば、ことに子供であるならば、凡そ不可解極まりない行動をとっていること、このことはむしろ被告人が犯人であることの有力な情況証拠となると解されること、④前記のような犯行直後から数日間の被告人の言動は、被告人が父守及び母あき子を殺害していないとしたら誠に不可解であり、これに反し、被告人が父守及び母あき子を殺害したものとすると、被告人の犯行直後からの行動及び事件現場の諸徴候は、すべて無理なく合理的に理解できるものであることが認められるのである。

これらの事実に、前記の両親の身体に生じている多数の刺切創、及び両親の死体遺棄の状況などを合わせ考えると、被告人が父守及び母あき子を両親宅において、ほゞ同時期に殺害したことの高度の蓋然性を認めることができるというべきである。

(二) これに対して、所論は、(1)血液鑑定の結果によると、被告人及び姉裕子の血液型は、MN型であることが判明しており、従って、その親である父守又は母あき子のいずれかはNまたはMN型血液でなければならないのに、犯行現場とされている両親宅から採取した血液、被告人が投棄した被告人の着衣、被告人がポリバケツに入れて持ち歩いていたござ、座布団、タオル類等からはNないしMN型の血液が発見されていないのは、父守あるいは母あき子のいずれかが両親宅で殺害されていない可能性があること、(2)母あき子が、事件当日である三〇日の午後七時から七時三〇分の間に、「ふるさと」食堂に米飯を買いに行っていること、(3)父守及び母あき子の死体解剖の結果によると、両名の胃、一二指腸、大・小腸の内容物の消化に相違があり、父守のそれは食後相当の時間を経過して死亡しているのに対し、母あき子は食後二ないし三時間後に死亡していることが認められること、(4)両親宅の床に残された足跡の中には女性のそれが発見されていること、これらの事実に照らすと、母あき子は殺害時刻とされる午後五時二〇分後も生存していた可能性がある、というのである。

そこで所論に則して検討する。

右所論の(1)について

(イ) 当審及び原審証人木村康、原審証人三上芳雄、同三木敏行、当審証人一杉潤の各供述並びに木村康(五二・二・一五付及び五四・三・二〇付)、三上芳雄、三木敏行(変更、追加を含む。)、山本茂(五二・六・七付及び五四・四・一〇付)、一杉潤作成の各鑑定書、久保田晶巳ほか一名作成の「検査結果について」と題する書面によると、以下の事実が認められる。

① 証拠物等及び両親宅から採取した血液の検査結果によれば、桃色合成ゴム製手袋にMN型血液が認められたほかは、タオル、ござ、座布団、セーター、シャツ、ズボン、白木綿ブリーフ、靴下、父守及び母あき子から採取した血痕ガーゼ並びに犯行現場である両親宅から採取した血痕等、いずれからもNないしMN型の血痕が検出されていない。

② 父守及び母あき子の血液型については、その判定の資料として、父守の死体から採取した血痕ガーゼ及び母あき子の死体から採取した血痕ガーゼがあるのみであるが、木村鑑定によると、右血痕ガーゼから、父守の血液型は、O―M―Q―CcDEe―Fy(a+b-)で、母あき子の血液型はO―M―Q―CCDee―Fy(a+b-)であることが判明したとされている。

③ 次に、タオル、同、ござ、座布団、セーター、シャツ、ズボン、同、同、白木綿ブリーフ、靴下については、木村鑑定ではセーター、白木綿ブリーフに付着している血痕からは父守及び母あき子と同一の血液型が、シャツ、ズボンからは父守と同じ血液型が、またズボン、靴下からは母あき子と同じ血液型が検出されたとしている。性別判定は、好中球の突起物であるドラムスティックの検出方法と、Y染色体の螢光小体(螢光スポット)の検出方法によって行われている。その結果、セーター及び白木綿ブリーフから男性及び女性の、シャツ、ズボンから男性の、ズボンから女性の血液が検出されたとしている。

三上鑑定によれば、検査開始が昭和五三年五月二二日で、すでに検体が陳旧あるいは腐敗したものであるから、Q式、Rh式の判定は不可能とし、ABO式、MN式および性別判定のみを行っている。これによると、ござ、座布団、セーター、白木綿ブリーフ、ズボン、血痕ガーゼ及びタオルについていずれもM型血液を検出したとしている。しかし、シャツ、ズボン、靴下、血痕ガーゼ、ゴム半長靴及び安楽椅子についてはMN式判定は不可能としている。性別判定では、Y染色体の螢光スポット数を観察して判定し(女性血液から検出されるドラマスティックは古い血液からの検出はほとんど不可能とされるので実施していない。)、ござ、座布団、セーター、白木綿ブリーフから男性及び女性の血液が、シャツ、ズボン及びタオルから男性の血液が検出されている。

三木鑑定によれば、鑑定人三木敏行は昭和五四年五月二日鑑定を受命し、人血の証明された、ござ、座布団、セーター、白木綿ブリーフ及び靴下についてABO式及びMN式血液型判定をしている(なお、ござ及び座布団についてRh式及びデイフイ式血液型検査をしたが、どの抗体も検出されなかったのが他の物については実施しなかったとしている)。同鑑定によると、MN式血液判定については、わずかに座布団及び白木綿ブリーフにM型血液を認めているにすぎず、他は判定不能としている。

久保田・一杉鑑定及び検査結果によれば、ABO式及びMN式血液検査で、ござ、座布団、タオル、ボデーカバー、ポリバケツからO―M型血液が、また、両親宅から採取した二二点の血痕からもO―M型血液(ただし、一点はMN型の判定が困難)が検出されたとしている。

(ロ) 血液型鑑定の結果について

木村鑑定による父守及び母あき子の血液型判定には、次のような矛盾がある。すなわち、山本鑑定によると、被告人の血液型は、O―MN―q―CcDEe―Fy(a+b+)で、姉裕子の血液型は O―MN―q―ccDEE―Fy(a+b-)であることが判明しており、これらの血液型は、新鮮な血液による検査結果であって、極めて信頼性の高いものといえる。これによると、原判決も指摘しているように、被告人が父守及び母あき子の間の子とすると、MN式、デイフイ式血液型において矛盾し、姉裕子が父守及び母あき子の間の子とすると、MN式、Rh式血液型において矛盾するうえ、Rh式血液型では、母子関係すら否定することになり、木村鑑定の結果には疑問がある。そこで、被告人及び裕子の血液型に基づき父守及び母あき子の血液型を考察すると、右両名の両親である父守及び母あき子は、いずれかがN型で他方がM型か、一方あるいは両方がMN型の血液でなければならないはずである。もともと、鑑定の資料とした前記血痕ガーゼは殺害された後、約一〇日間海中に漂流していた父守及び母あき子の死体の胸腔内や心嚢内から採取した血液をガーゼに付着させて採取したもので、採取時にすでに血液の腐敗が著しかった状態にあったものである。ところで、MN式血液型判定においては、血液の陳旧化や腐敗化に伴い、M抗原やN抗原の活性が次第に退化し、特に、N抗原はM抗原に比較して活性低下の度が強くMN型のN抗原においてそのことが著しいため、血液が古くなるとMN型においては、N抗原が消失してM抗原だけが残るため、M型と判定されることがあることや、量的効果として、M型血液とMN型血液とが混合した場合、本来MN型血液であるものが、陳旧化に伴いM型と判定される可能性があることが証明されている。又Rh式やデイフイ式の血液型判定においては、MN式以上に抗原が保存に対して弱いため、陳旧あるいは腐敗血液については、検査方法が複雑であることとあいまって、判定困難とされている。

当審証人木村康の供述によると、MN式血液検査において、本来MN型血液が一箇月程度しか経ていないのに、N抗原が消失し、M型を示す事例が数件報告されていることなどから、同証人が鑑定したMN式血液型鑑定についても、実際にはMN型であっても、検査時にM型を示す可能性があることを率直に認め、特に本件血痕ガーゼで採取した血液は、腐敗が著しいこと、その他の着衣等も陳旧度が高い(昭和五一年二月一七日鑑定受命)ため、本件の鑑定結果については信頼性の低いことを自ら認めているのである。また、同証人は、Rh式及びデイフイ式についても、検査方法が複雑であり、本件のように陳旧、腐敗した検体では、誤りを犯す危険性のあることを認めていることに照らすと、これらの検査結果についても信頼性は低いといわざるを得ない。

一杉潤作成の鑑定書及び久保田晶巳、一杉潤作成の「検査結果について」と題する書面及び当審証人一杉潤の供述によると、検査資料である血痕付着の、ござ、座布団、タオル、ボデーカバー、ポリバケツ等は昭和四九年一一月五日に、両親宅から採集した血痕は同月六日にそれぞれ鑑定嘱託を受けた比較的新しい血痕であり、その検査方法もいわゆる手技上一般に行われているところに従ったものと認められるが、同証人の実施した解離試験においては、抗Nに対する凝集を肉眼で判定する方法であって、相当な経験を積まないと、極微小極微量の凝集の見極めが困難であるうえに、N抗原自体の力価が弱いため見付け辛いところ、当時は抗体の力価自体も高いものが得られず、そのため対照(コントロール)を置いて反応を確かめて実施したというのである。ところで、右検査は、同証人が実施しているが、同証人は、大学衛生学部を卒業し、昭和四九年四月千葉県警察本部科学捜査研究所に入所したもので、当時実務経験が豊富であったとはいえず、検査について上司や千葉大学法医学教室の指導を受けていたとはいえ、MN型血液検査のうえで技術上の経験の程度や、抗体血清の力価を含めて、当時の検査水準をも合わせ考えると、右検査結果についての信頼性には大いに疑問がある。

(ハ) 性別判定について

所論は、本件のような陳旧血液による性別判定の結果について、その信頼性に疑問を呈するが、性別判定のための血液検査として、採取血液の白血球中から得られるドラムステックの検出によって行われる検査は、陳旧な血痕では、その判定はやや困難であり、白血球中から得られるY染色体の螢光小体の検出によって行われる検査は、やや陳旧な血痕でも検出可能であるが、男性血痕では比較的早期に出現率が低下するといわれている。本件では、木村鑑定は、ドラムステック及び螢光小体の検出による方法で性別判定が、また、三上鑑定は、螢光小体の検出による方法で性別判定がそれぞれ行われているのであり、ただ、血痕の陳旧化により、その出現率は低いが、前者ではドラムスティック及び螢光小体の、後者では螢光小体の出現自体は明らかに証明されていて、しかも、木村鑑定の場合、ドラムスティックの出現したところには、螢光小体が出現せず、螢光小体の出現したところにはドラムスティックが出現していないことや、木村鑑定と三上鑑定とは、性別判定の結果が全く一致していることからすれば、その検査結果の信頼性は高いといえる。

以上のとおり、父守又は母あき子のいずれかは、血液中にN因子を有しているはずであるが、前記のMN式血液型鑑定の鑑定結果によるとN因子の証明がなされていない。しかし、これは検体の陳旧・腐敗によるか、検査の技術上の問題から発見がなされなかった可能性が十分認められ、かえって、性別判定検査の結果によると、男女二種類の血液が検出されているのであって、その検体の所在場所を併せ考えると、右事実は、まさに父守のみならず母あき子もまた本件犯行現場である両親宅で殺害されたことの有力な証左であるということができる。かつ、このことは、被告人は母あき子が父守を右両親宅で殺害した直後ごろ両親宅に至り、父守の死体を同家の風呂場に運び、付近の血液の始末をして同家を出たが、その後母あき子は同家から出て行方不明となり、翌一〇月三一日の午前午後とも同家に母あき子の姿を見なかった旨を主張する被告人の弁解の根底を覆すに足りる有力な証拠となるといわなければならない。

右所論の(2)について

この点については、原判決が(弁護人の主張に対する判断)中の「母親殺害の日時について」と題する項において、委曲を尽くして認定説示するとおりである。すなわち、原審証人甲地正志は、母あき子が隣の「ふるさと」食堂に米飯を買いに来たのは、①萩本欽一の出演しているテレビ番組が放映されているときで、②水曜日であって、③「ふるさと」食堂の主人元良潔が床屋に行った日で、④給料日の前日であり、なお⑤同日午前五時四五分ころ母あき子が同人宅の作業場で片付けものをしているのを出勤途次に目撃した、と述べているが、これによると、母あき子が米飯を買いに来た日時は一〇月三〇日午後七時ころから同日午後七時三〇分ころまでの間ということになる。しかし、この問題は、そもそも、被告人が同月三一日午後六時一〇分ころ「ふるさと」食堂を訪ね、被告人の両親から何か連絡はなかったかと尋ねた際、甲地正志が被告人に昨日(一〇月三〇日)午後八時少し前に被告人の母が御飯を買いに来たと言ったことに端を発するものである。しかして、原審証人甲地正志の供述によると、要するに、被告人が昨夜(一〇月三〇日夜)から被告人の両親が行方不明になっていると言ったので、被告人の母あき子は前日夜「ふるさと」食堂に米飯を買いに来たのではないかと思い、一瞬の疑問を交えて、ちょっとした話からそう言ったが、その後、母あき子が米飯を「ふるさと」食堂で購入した日時が重要な問題になってから、「ふるさと」食堂の者と話し合って、記憶を整理し、原審公判廷でのような供述に至っているのである。しかし、この記憶の喚起方法を見ると、そのとき見たテレビに萩本欽一が出演していたと言ったことから、その番組が水曜日にあること、元良潔が床屋に行って帰ってくる前に、母あき子が御飯を買いに来たこと、元良潔は、翌日が給料日であるから床屋に行ったこと、給料日は三一日であるので、同人が床屋に行ったのは三〇日である、といった連想的な記憶喚起に基づいているものである。なるほど、一〇月三〇日午後七時から午後七時三〇分までの時間帯で萩本欽一出演の「日本一のおかあさん」というテレビ番組が放映されているが、同月二九日にも午後七時三〇分から午後八時までの時間帯に萩本欽一の出演する「55号決定版」というテレビ番組が放映されていることが認められる。また、元良潔が床屋に行った日であるとする点についても、同証人の供述によると、「(問)これはどうして特に、給料日の前の日というふうに覚えているのですか。」「(答)元良さんが床屋に行ったので、床屋に行ってくるといったもので、自分達も明日給料日だというのは皆知っているから、それで御飯を買いに来たとか。」「(問)たいてい給料日の前の日に、床屋に行くのですか。」「(答)そんなことはないけれども、そのとき本人がそういうふうに話して行ったんですがね。床屋に行ってくるからと。」という供述になっており、記憶喚起としては、元良潔が床屋に行った日は、同人によって確認できるのであるから、その記憶を明確にすることができているが、そのことと母あき子が米飯を買いに来た日との結び付きに必然性は認められない。

結局、母あき子が「ふるさと」食堂に米飯を買いに行った日時については、同女の本件事件当日の行動とも関連させて、客観的に考察すべきであるところ、原判決が、萩本欽一がテレビに出演していた時間帯に母あき子が米飯を買いに行ったことを前提にして、それが一〇月二九日か同月三〇日かを情況証拠に照らして検討し、母あき子が「ふるさと」食堂に米飯を買いに行った日にちについて、甲地正志は、同人が一〇月二九日に萩本欽一出演のテレビ番組を見ていたときに母あき子が米飯を買いに来たのを、一〇月三〇日の出来事であると思い違いしているというべきであり、母あき子が「ふるさと」食堂に米飯を買いに行った日時は、一〇月二九日七時三〇分過ぎころと認める、と認定したのは正当として是認できる。

所論は、原審の甲地正志証言について、同証人は、萩本欽一が司会で何かやっていたと明確に述べているところ、二九日の「55号決定版」では、萩本欽一は坂上二郎と共演で、萩本欽一が司会する場面はなく、一方、三〇日の「日本一のおかあさん」では萩本欽一が司会者として登場することからも、同証人が「欽ちゃんが司会をしている番組を見た」と述べており、いずれの番組を指し、かつ、記憶しているか自ら明らかであるというのである。

なるほど、同証人は、「欽ちゃんの司会で何かやっていたとき」あき子が米飯を買いに来たと述べているが、しかし、その供述も具体的なものではなく「何かやっていた」という程度であり、もとより「司会」と「出演」とを区別して述べたともみられず、この供述は、それほど重視しえないのであるから、所論のとおりだとしても、それをもって前記認定の反証となるものではない。

また、所論は、二九日の「55号決定版」の放映時間と、三〇日の「日本一のおかあさん」の番組の放映時間とでは放映時間が異なっており、原審証人甲地正志の供述は、三〇日の番組のそれと符合するというのである。ところで、前者の放映は午後七時三〇分から午後八時であり、後者の放映時間は午後七時から午後七時三〇であるところ、甲地正志証言によると、「ふるさと」食堂では、通常夜は午後六時から午後七時半ころまでの間に客がくるが、当夜は「そのときに丁度終ったから。そのときは早かったんです。」「あまりテレビは見ないんだけれども、そのときは客がくるのが早かったから、座ったときに、とんとんときたのです。」と述べており、むしろ、当夜は、客が来るのが早かったので、仕事が一応終り、午後七時三〇分ころからのテレビを見ていたと認めることができるのであるからこの所論も反証となり得ない。

ところで、所論は、母あき子が一〇月二九日午後七時三〇分を過ぎて「ふるさと」食堂に御飯を買いに行ったとすると、その後、母あき子は「華紋」に行っているが、両親宅から「華紋」に至る所要時間(約三〇分)を考慮すると、関係者の述べる「華紋」到着時間である午後八時ころには到着することができないはずであり、矛盾が生ずるというのである。しかし、この点も原判決が正当に認定説示しているとおりであって、結局、同日夜、母あき子が「華紋」に到着した時間に関し、多数の関係者の供述があるにもかかわらず、これらの者の供述には相当な時間の幅があり、しかも、いずれも漠然とした記憶に基づくもので、当時の状況を総合的に勘案すると、母あき子が「華紋」に到着した時間が午後八時をかなり過ぎていたと認定したのは相当であり、不合理とはいえない。したがって右所論も採用することができない。

更に、所論は、原判決が①当日、母あき子と父守が殺害されたのに午後五時四五分ころに、母あき子が屋外の仕事場で片付けをしていたことになること、②母あき子は、自分一人しかいないのにわざわざ二人分の米飯を買ったことになること、③同日午後五時五〇分ころから午後一一時ころまでの間に、石田裕子夫婦が何度も両親宅に入れた電話及び午後七時少し前ころ二回にわたって増谷喜弘が入れた電話に母あき子が出ないということを挙げて、三〇日午後七時から七時三〇分の間に母あき子が米飯を買いに行ったとすれば不自然、不合理であると説示している点をとらえて種々非難する。

しかし、すでに述べたとおり、三〇日午後五時二〇分ころ最初の犯行が行われたこと、以後外部の者が両親宅にした電話に応答がなかったことが認められているのである。仮に、この時刻ころ母あき子が生存していたとすれば、父守がすでに殺害されていたのであり、かつ母あき子は当然その惨状を目のあたりにしているはずであるから、精神的に相当な衝撃を被って絶対平生ではなく、なんらかの精神的動揺を看取できる状況下にあったと目されるのに(被告人の原審及び当審供述によるとするならば、その段階は母あき子が父守を殺害した直後ころということになるのであるが、それをもってしても母あき子は呆然自失して台所に座り込んでいる状況でありその精神的衝撃の激しさを現わしているのである。)前掲証人甲地正志の供述するような、母あき子がその直後の同日午後五時四五分ころには、自宅の店舗前の片付けものをしていたとか(母あき子がその時刻ころ生存しているならば、夫守の死体の処理を如何にすべきかで懊悩の唯中にあったとみるのが常識であろう。)、同日午後七時三〇分には、「ふるさと」食堂に米飯二人前を買いに行くとかのことは(この時刻ころになんのために二人前の米飯を購入する必要があるのか、全く説明がつかない。被告人の弁解をもってしても被告人はこの時刻ころはすでに両親宅にはいないのである。)、まさしく不自然、不合理以外のなにものでもなく、母あき子の性格、年齢、生活態度等に照らしても、母あき子が父守の殺害された(被告人の主張では「殺害した」)ことを隠蔽し、平然と屋外の片付けものをしたり、食事の用意をするため外部に米飯を買いに行くとは到底ありえないというべきである。してみれば右を一〇月三〇日の夜とする主張が採用できないのみならず、かかる主張自体に相当無理があるというべきである。

なお所論は、本件犯行現場とされる両親宅台所にある茶だんす内に、どんぶりに半分入った米飯が残されていたが、これは、甲地正志が母あき子に販売した米飯であり、一方電気釜の中にも炊いた御飯がどんぶり二杯分くらい残されているのが発見されていて、二九日に母あき子が米飯を「ふるさと」食堂から購入したとすれば、翌三〇日朝食及び昼食の二回食べる機会があったのにそのまま残されたことになり、父守夫婦の生活態度や生活状態からみて不自然であるというのである。

なるほど、原審証人斉藤守の供述及び司法警察員作成の昭和四九年一一月五日付検証調書によると、同日、両親宅を検証した結果、同宅台所流し台の上にあった電気釜には、炊いた御飯が残っており、その量は、目測で大体どんぶり二杯分くらいで、全部かきまわしてふっくらした状態であったこと、また、茶だんすの中には、直径二〇センチメートル、深さ六センチメートルの竹と松の黒模様のどんぶりに御飯が縦に半分に切ったようにして半分くらい入っていたが、右どんぶりに入った御飯は、「ふるさと」食堂で買ったと認められること、以上の事実が認められる。

しかし、三〇日には被告人が早朝から訪ねてきたので、朝食ないし昼食を用意するため、二九日に「ふるさと」食堂で購入した米飯の残りがあったとしても、新たに御飯を炊くことは十分考えられることである。かえって、所論のいうように、仮に、三〇日午後七時から七時三〇分ころの間に「ふるさと」食堂で母あき子が米飯を購入したとすれば、父守が殺害されたことを外部に知らせないでいる一方で、電気釜に御飯が残っているのに、かつ、すでに独りになっているのに、わざわざ「ふるさと」食堂まで二人前の米飯を買いに行ったことになり、不自然、不合理というべく、母あき子がそのような行動を取るはずもない。所論は採用できない。

なお付言すると、被告人は一一月一日午前中ふるさと食堂において、「一〇月三〇日午後七時三〇分ころ母あき子が御飯を買いに来た。」旨のことを聞かされたものの、そのことを信用していない。それは被告人が真犯人であるが故に当然のことであるが(この段階で母あき子はすでに生存していない。)、のみならず当時の被告人の行動がそのことを物語っている。すなわち、被告人は右のように聞いていたにかかわらず、前記のように市原署には母あき子が一〇月三〇日午後七時ころから行方不明になったと届出ているのである。このことは母あき子は同日午後七時三〇分ころにはすでに両親宅にはいなかったことを被告人が認めていたことを意味するものである。このことからも所論は採用できない。

右所論の(3)について

木村康作成の昭和五一年三月二七日作成の鑑定書二通によると、父守の死体解剖の結果「胃内空虚、内膜は汚穢赤褐色を呈し、多数の腐敗気泡出現す。一二指腸内には黄褐色粘稠内容小許を存し、肉眼的に識別しうる未消化物を含まず、内膜は腫脹し、黄褐色を呈す。小腸には黄褐色泥状内容多量を存し、内膜は蒼白、わずかに腫脹す。所々腐敗気泡出現す。大腸内には黄緑色軟便多量を存し、内膜は蒼白、わずかに腫脹す。」との所見が、また、母あき子の死体解剖の結果「胃にはニラ、卵黄、米飯粒を含む褐色内容小許を存し、内膜は雛襞に乏しく、大彎に沿って指頭大の出血を存す。一二指腸内には黄色粘稠内容小許を存し、内膜は黄色のカビ発生し、腐敗気泡多数発生す。未消化物を混在せず、小腸内黄色粘稠内容小許を存し、内膜は黄色を呈するも出血なく、大腸内には黄褐色軟便多量を存し、内膜は蒼白、異常を認めず。」との所見がなされている。原審証人木村康の供述によると、右の胃等内の内容物の消化状態から、父守は食後三ないし四時間またはそれ以上の時間が経って殺害されたこと、しかし、母あき子は食後二ないし三時間内に殺害されたことを示していることが認められる。すなわち、父守と母あき子とはそれぞれ異なる時間に食事をしたか、同じ時間に食事をしたとすれば、異なる時間に殺害されたことになる。ところで、髙橋恭次の司法警察員に対する供述調書によると、同人は青果物の行商をしているものであるが、一〇月三〇日午後二時ころ得意先である佐々木守方に寄り、母あき子に鶏卵等を売った際、ニラ一束を母あき子に無料であげた気がすると述べているのである。してみると、母あき子の胃内にニラ、黄卵及び米飯粒が残存していたことから、同女は、同時刻以後に鶏卵とニラを副食にして食事を摂ったと認めるのが相当であり、この時の食事は、遅い昼食かあるいは間食となるのであるが、自宅で夫婦による家内営業をしている母あき子としては、遅い昼食や間食をとることが特に異常とも認められず、在り得ることである。所論も指摘するとおり、被告人の昭和四九年一一月四日付及び一二日付司法警察員に対する各供述調書並びに原審公判廷における供述によると、被告人は、朝・昼食とも父守と母あき子が一緒にいつものとおり食事を摂ったが、被告人は朝・昼食とも食事を摂らなかったと述べているが、原審証人斉藤守の供述及び司法警察員作成の昭和四九年一一月五日付検証調書によると、検証時に、両親宅台所の流し台の中には、使用した三人前の茶わん、汁わん及び箸が置いてあったのが発見されており、若し被告人が食事を摂らなかったとすれば、父守か母あき子が昼食後もう一度食事をしたことになる。更に、永田正、森悦洋、中川源次郎、錦織操、吉田市太郎、石塚優次、加藤博史、鈴木泰隆、池田豊彦の司法警察員に対する各供述調書並びに小川安二及び石毛俊雄各作成の答申書によると、三〇日の八幡タイヤの営業は、午前、午後を通じてタイヤのパンクの修理、タイヤ販売員の訪問、修理したタイヤの配達といった仕事が行われているが、母あき子は、専らタイヤのパンクの修理と家事に従事しており、前掲髙橋恭次の司法警察員に対する供述調書によると、同人が青果行商のため訪ねたときは、作業場には誰も姿がなく、声を掛けると、母あき子が台所から出てきたと述べていることからも明らかなように、母あき子は、作業場での仕事のみに専念していたとも認められない。してみると、所論のいうように、母あき子が午後二時以降に髙橋からもらったニラ等を使って簡単な副食を作って食事をするような時間的余裕がなかったともいえない。やはり、すでに説示したような、本件の客観的事実に照らして考察すると、父守が殺害された後も母あき子が生存し、ニラ等を副食として食事を摂り、その後二ないし三時間経って母あき子が殺害されたとすることの不自然性に比すれば、母あき子が父守とは別に同日午後二時過ぎころ食事を摂ったとみることの方がはるかに自然である。

右所論の(4)について

所論の指摘するとおり、原審証人野村七三の供述によると、同人が、被告人を取り調べた際、被告人に対し、両親宅をルミノール検査した際、女性の足跡が発見されたが、その足跡は母あき子のものであると話していることが認められる。しかし、女性の足跡が発見されたとするのは、右野村証人の供述以外にはなく、しかも、同人は現場検証等に立ち合っておらず、かえって、司法警察員作成の昭和四九年一一月五日付検証調書、同月四日付作成の現場検証実施結果報告書並びに原審証人斉藤守の供述によると、両親宅を検証し、ルミノール試薬による血痕検査を実施した結果、被告人のものと認められる一種類の素足の足跡が発見されたのみであり、右事実に照らすと、前掲野村証言は、全く根拠に乏しく、右証言を基にした所論は採用の限りでない。

以上のとおりであって、右所論(1)ないし(4)の主張は全て否定され、母あき子が三〇日午後五時二〇分以後も生存した可能性を疑わせる事実は全く認められない。

二  被告人の自白の任意性及び信用性について

被告人は、昭和四九年一一月四日付司法警察員に対する供述調書では、事実を全面的に否認したが、父守の死体が発見された同月九日付の司法警察員に対する供述調書で、母あき子が父守を殺害し、被告人が母あき子を殺害した事実並びに父守及び母あき子の死体を五井の岸壁から海中に投棄した事実を認めるに至った。その後、同月一三日、両親の殺害を自供するとともに、犯行に使った登山ナイフ及び犯行時に着用していた衣服等の投棄場所を自供し、その自供どおりこれらの物件が発見された。しかし、自供について調書を作成することを拒否していたが、同月一五日付司法警察員に対する供述調書で犯行の全面的自白についての調書が作成された。その後は、同月一六日付、同月一八日付、同月二〇日付、同月二四日付、同月二五日付及び同月二九日付司法警察員に対する供述調書並びに同月二二日付、同月二三日付、同月二四日付、同月二五日付及び同月二六日付検察官に対する供述調書が作成され、また被告人作成の同月二〇日付及び同月二八日付各申述書が検察官あて提出されている。

(一)  自白の任意性について

(1) 所論は、被告人作成の昭和四九年一一月二九日付及び同月二八日付各申述書は、被告人が黙秘権を行使し、動機、原因にかかる供述を拒否したことから、供述調書に代えて作られたものであるが、被告人の取調べを担当していた司法警察員野村七三が、被告人の黙秘権行使を潜脱させ、第三者の目に触れさせないとの虚言をもって訴訟手続に無知な被告人をしてその旨信じさせて作成させたもので、右書面は、黙秘権の行使を侵害し、利益誘導、詐言によって作成された違法があり、かつ、公開の法廷における証拠調べの方式に違背するものであり、しかも、右二八日付申述書は、本件公訴提起後に作成させたものであるから、いずれも証拠として排斥されるべきである、というのである。

しかし、原審証人野村七三及び同黒崎兼作の各供述、司法警察員ら作成の昭和四九年一一月二〇日付捜査報告書並びに被告人の原審供述によると、原判決の(弁護人の主張に対する判断)六の1に認定説示しているとおり、右二通の申述書は、被告人が一般の人に動機等を知られたくないが、捜査関係者や裁判所の目に触れるだけの方法で、動機等を明らかにしたいとの気持から作成したものであるから、これらの申述書が、所論のいう捜査官の黙秘権行使の侵害、利益誘導あるいは詐言により作成させた違法なものでも、また、任意性を欠くものでもない。

(2) 更に所論は、被告人の司法警察員及び検察官に対する供述調書は、逮捕以前にも任意捜査という名の下で強制的に取調べがなされ、逮捕後も黙秘権の告知がなされておらず、かつ、被告人が勾留中、断食状態にあって疲労困憊していた心身状態を利用して連日深夜に及ぶ取調べをし、あるいは心理的圧迫を加えて自白を誘導したものであり、なお、同月二九日付司法警察員に対する供述調書は、本件公訴提起後のものであるから、これらの自白調書には任意性がない、というのである。

しかし、前掲各証拠並びに被疑者動静簿、検察事務官作成の被疑者取調べ状況報告書によれば、被告人の自白調書の任意性について、原判決が(弁護人の主張に対する判断)六の2において認定説示するとおり、被告人を被疑者として取調べた過程において、違法はなく、被告人を被疑者として取調べるに当り黙秘権についての告知をし、その後は必ずしも調書作成の都度、明示の告知をしていないことは、所論の指摘するとおりであるが、被告人は黙秘権のことは十分了解していた(原審証人野村七三の供述及び被疑者動静簿によると、被告人は、同月八日及び一二日には弁護人と面接しており、取調べにあたった野村警部補に、弁護人から黙秘権ないし供述拒否権について教示されたことを話していることが認められる。)のであるから、調書作成の都度明示の告知がないからといって、その調書が黙秘権の行使を侵害して作成されたものとはいえない。また、その取調べにあたって、被告人に対し肉体的、心理的強制や違法不当な利益誘導がなされた事実はなく、供述にあたって被告人の任意性は十分保たれていたと認められる。被告人の同月二九日付司法警察員に対する供述調書は所論指摘のとおり本件の公訴提起後第一回公判前に作成されたものであるが、その内容は、本件の直接の動機、金庫から金を取った理由及び死体遺棄の理由について一問一答形式で供述されているが、既にこれまで供述した内容を繰り返し述べているに過ぎず、証拠として特別重要ではないが、この段階での供述調書の作成が当事者主義の原則を逸脱するものとして違法とすべきものとも認められない。

(3) 以上のとおり、被告人の自白調書及び前記申述書に所論のいう違法は認められず、任意性を疑わせる事由も認められない。従って、原審が右申述書並びに自白調書を刑事訴訟法三二二条一項により証拠として採用した原審の手続は適法であり、論旨は理由がない。

(二)  自白の信用性について

(1) 自白と客観的事実との符合

既に検討したとおり本件では、被告人と本件各犯行とを結び付ける重要な客観的事実が多数存在し、これらの事実によれば、昭和四九年一〇月三〇日午後五時二〇分ころ及びそれに引き続いて両親宅内の台所ないし風呂場付近廊下において、父守及び母あき子が相前後して殺害され、その後同宅から両親の死体が搬出されたうえ、市原市五井南岸壁付近海中に投棄されたこと、被告人が右殺害の犯行時ころに犯行現場に現在しており、これに関与していることが明らかとなっているところ、右父守及び母あき子の殺害時に殺害現場である両親宅には、右両親のほかには被告人のみがいたにすぎず、他に姉裕子その夫輝久生をはじめ第三者の存在は全くないことが明らかになっているのであるから、両親が死亡し被告人が生存している以上、父守と母あき子の一方が他方を殺害し、その後被告人がその生存者を殺害するか、被告人が父守及び母あき子を殺害するかする以外にはありえないのであるが、両親相互にいずれかが他方を殺害することは(被告人の主張によれば母が父を殺害したとなる。)、すでに説示したように絶対にありえないことが明白であるから(母が父を殺したとする動機についての被告人の転々とした供述は、被告人の一方的な創作的虚構にすぎず、これを証するに足りる証拠はなく、むしろ客観的状況は右供述に反することが明らかである。)すでに説示したように犯行の動機の点でも、また本件発生後の被告人の言動の点でも、両親殺害の犯行は、全て被告人によるものであることの高度の蓋然性があるということができるのである。

ところで、被告人は、その捜査段階での自白にいたる経緯についてみると、当初は犯行を全面的に否認し、両親の殺害時刻とされるころは、両親宅を出て八幡町内を歩いていたが、ナップザックを両親宅に忘れたことや、父守から取り上げられた自動車のことを思い出して、両親宅に引き返してみると、両親が不在であったと述べて犯行を否認し、ただ廊下に血痕があってこれを踏付け、履いていた靴下にその血が付着したこと、二階の両親の寝室にある金庫から現金三〇万円を持ちだしたことは認めたが、この自供部分は当時発見されていた証拠に照らしても明らかに矛盾があり、同年一一月九日父守の死体が発見された日に、両親の死体遺棄と母あき子の殺害を認めるに至っている。右の自供で、両親の死体を岸壁から投棄する際、錘としてホイルを両親の死体に一個ずつ結び付けたと述べているところ、父守の死体からはホイルは発見されなかったが、翌一〇日母あき子の死体が発見され、その死体には被告人の前もっての自供どおりにホイルが錘として結び付けられていたのであって、被告人の自供は更に一歩真実に近ずいている。同月一三日には、犯行を全面的に認め、犯行時の被告人の着衣と凶器である登山ナイフを捨てた各場所を図示した図面を作成し(捜査官らはそれまで右物件の所在につきなんら情報をつかんでいない。)、右の物件の投棄現場に自ら捜査官を案内したところ、右図示したとおりの各場所からこれらの物件が発見されたのであって、被告人の自供が信用できることを示すとともに、自らの両親殺害に関する重要な自白をしているのである。もっとも、この際の図面に署名押印することも、また自供について調書を作成することも拒否しているのであるが、かかることは右の重要な事実を左右するものではない。また一四、一五日付の供述でも両親を殺害したことは調書上に記載させなかったものの、金庫の鍵についてはこれまで合鍵を使ったと述べていたのを、母あき子が首に下げていた金庫の鍵を取って使ったと供述をし(石田裕子の同年一一月一六日付検察官に対する供述調書により、母あき子は以前から金庫の鍵を首に下げていたことが確認されている。)ている。同月一六日に至って父守も殺害したことを認める司法警察員に対する供述調書に署名押印するに至った。しかし、両親を殺害するに至った動機については曖昧な供述をするのみで、両親を殺害する前に話した内容は誰にも知られたくないと言って、これを明らかにすることをかたくなに拒んでいたが、前記同月二〇日付申述書において、被告人は両親殺害の心情や動機について詳細な記述をするに至っている。このような経過をたどって、同月二二日及び二三日付け検察官に対する供述調書において総括的に犯行事実をほぼ全面的に自供した。

被告人の行為事実に関する自白内容は、前記認定の客観的事実とよく符合し、自然かつ合理的である。しかも、被告人の自白により、その後犯行に使用した凶器と一致する登山ナイフ及び犯行時に着用した衣服類が発見されたこと、自白どおりに母あき子の死体に自動車用ホイル一個が結び付けられていたこと、同年一一月一八日付司法警察員及び同月二二日付検察官に対する各供述調書では、両親殺害後台所等に流れていた血を拭き取るにあたり、椅子等を動かしたりする音を外部の者に聞き取られないようにするため、台所のテレビをつけたうえ、その音量を大きくしたと供述しているところ、同月二五日司法警察員が被告人の指示に基づいて両親宅を検証したところ、台所のテレビの音量調節つまみに血痕が付着しているのを発見したこと、更に死体を運搬するため、風呂場の窓から死体を外に出したが、その際死体をロープで縛り、窓の敷居から吊すようにして下に降ろしたと述べているところ、同所の窓の敷居に、ロープでこすったと思われる跡が発見されたこと、などが認められるのであるが、これらの事柄は、犯人でなければ知りえない事実であり、被告人の自白の真実性を十分に担保するものである。

(2) 被告人の自白する犯行の動機について

被告人の同月二二日付検察官に対する供述調書によれば、本件登山ナイフを購入したのは同年一〇月二五日ころであるが、購入した理由については言いたくないとしてその理由を明らかにせず、三谷の内縁の夫に三谷との交際が知れたら危害を加えられる虞があるためとか、唐鎌が交際している暴力団員に対する自衛のためというような供述もしているが、必ずしも首肯できるものではない。また、本件登山ナイフを犯行当日被告人自身がナップザックに入れて所持していた可能性も考えられるが、しかしながら、被告人の使用していたシルバーメタリック色の乗用自動車内から、両親殺害後、本件登山ナイフのものと認められるケース(鞘)が発見されており、右自動車は同月二九日夜両親によって取り上げられ、被告人は両親殺害のときまで右自動車には接していない事実に照らすと、本件登山ナイフは被告人の述べるとおり、右自動車のダッシュボード内に入れていたものを同日母あき子が発見し、両親宅に持ち帰って台所のスチール製家具の引出しに入れておいたのを、同月三〇日夕方母あき子が取りだし、テーブルの上に置いたと認めるのが最も自然である。してみると、被告人は、それを凶器として両親を殺害するに至っているところからするならば、それ以前に両親に対する明確な殺意を有していたとは思われないとするのがこれまた自然である。そうすると、被告人の自供するとおり父守が被告人に対して、三谷の以前の職業やそこでの行為について三谷を蔑む言葉を使い、三谷と交際している被告人を面罵したことが、若い被告人にとっては耐えられない気持になり、殺意を抱くに至ったとすることは、十分首肯できる。

しかし、母あき子に対する殺害の動機について、父守を殺害した後、台所に入ってきた母あき子が、「私もこれでこの人から開放される。哲他はこの人の子ではないかもしれない。これから二人きりで暮そう。」と被告人を慰めるようなことを言ったと述べ、被告人は、母あき子が被告人に対して取った態度が許せないと感じ、いっそ殺害しようと決意したという趣旨の供述をしている。

たしかに、母あき子がこのようなことを言ったとすれば、極めて唐突であり、理解し難いところである。ところで、被告人の供述する母あき子の右発言をめぐって、原審では、被告人と父守との間での親子関係について、血液鑑定がなされている。しかし、すでに説示したとおり、木村鑑定によれば、被告人は父守及び母あき子の間の子であることを否定する結果となるが、同時に姉裕子もまた父守及び母あき子の間の子であることをも否定されるばかりか、裕子に至っては母あき子との母子関係する否定される結果となっており、明白に真実に反している。したがって、右血液型の鑑定による親子関係の判定は、極めて信用性に乏しく採用できない。また右鑑定以外に被告人が父守の子であることを疑うに足りる証拠は存しない。結局、原判決が認定説示しているとおり、父守及び母あき子の結婚以来の夫婦生活、両名の性格、環境、被告人ら子に対する愛情等に照らせば、被告人が父守以外の男性の子であるとは到底認められないのである。

してみると、母あき子が「哲也はこの人の子ではないかもしれない」と言ったとする点の被告人の自白は事実としては容易に信じ難い。かりにその段階で母あき子がそれらしきことを口走ったとしても、被告人がその自供の中で、父守を殺害する直前に父守が被告人に言った言葉について、被告人は親子でも言うべきでない言葉であると言っていることと合わせ考えると、被告人が母あき子に対して、父守とは親子ではないと言ったのに迎合しての、母あき子の言葉と解されるのであるが、すべて被告人の供述に現われているのみであって既に確認すべきすべもない。しかしこの点を除けば、被告人が母あき子を殺害するに至った動機や状況については、十分首肯できる。即ち、台所においてすでに刺殺され、血まみれになって横たわっている父守の上に乗っている被告人の姿を、同所に入ってきた母あき子が目撃して、顔面を蒼白にして被告人らのところに駆け寄り、被告人の父殺害直後の形相や被告人の側にあった登山ナイフを見て、自分に対する同様な攻撃を直感して極度の恐怖を感じたであろうことは当然であり、被告人の興奮した血まみれの形相を見て、被告人の昂揚している精神状態を鎮め、自らはその場を逃れようとするならば、被告人の発言に対して、それに迎合するような発言をしたとしても至極当然といい得るであろうが、一方被告人としては、夫であり被告人からすれば父である守を子である被告人が殺害したのであるから、妻であり母であるあき子が当然被告人を激しく非難したり、叱責する挙に出ると思っていたのに、被告人に迎合する態度を示したことが、母あき子が夫である被告人の父守を裏切ったと思い、許せないと感じたと述べているのは、それまでも母あき子を憎み、うっとうしく感じていた被告人にとっては、事の勢いもあって、母あき子を殺害するに至る十分な動機原因があったと認められ、被告人の母あき子殺害にいたる供述はその限りでは合理性を持っている。

(3) 父守殺害の態様に関する自白と客観的状況との符合

木村鑑定(昭和五一年三月二七日付)によると、父守の死体には前記認定のとおり一一箇所に刺創があり、また八箇所に皮下出血ないし表皮剥脱が認められる。しかるに、被告人の自白を綜合すると、被告人は父守の背後から左手で父守の左肩を掴み、右手に逆手に持っていた前記登山ナイフで父守の右肩付近を力一杯二回くらい刺したこと、次いで、左手で父守の左肩を掴んで後ろに仰向けに倒して、父守の下腹部付近に乗りかかり、引続き父守の胸付近を逆手に持った登山ナイフで一、二回刺したこと、更に、右手に逆手に持った登山ナイフで父守の頭部左こめかみ付近を刺したことを述べているが、前記刺傷の全てについての刺突方法や、表皮剥脱、皮下出血の成生原因となった行為についての詳しい供述はしていない。被告人は右殺害行為の自供に至る過程で、右の各事実を小出しにして自白しているのであるが、両親を登山ナイフをもって正に所かまわず多数回に亘って刺突して、これを血のうみの中で殺害するという残忍極まりない凶行をあえて犯したその息子であってみれば、その当時極度の興奮状態に陥っていたものと認められ、平静を取戻した取調べ時にあってもその記憶を追想してそれを口に表現するには、相当の決断と気持の整理が必要であったであろうと推認されるところからするならば、父守殺害の手順と具体的行為につき右の程度であったとしても、そこに述べられている事柄は真実を語っているというべく、それが詳細にわたっていないからといって、自己の経験しないことを供述した信用性がないものとすることはできない。

所論は、父守の死体の腹部にあるリ及びヌの刺創について、リは、胸骨部下界では上創角は正鋭、下創角は角型であって、後上方へ走っており、ヌは、左創角が鋭で右創角が鈍で後上方へ走っていて、やや身長の上回る被告人が被害者にまたがっては到底することのできない部位と角度であり、また、リ、ヌの各創傷の創洞は、上創角と下創角がほぼ正反対の形状を示しており、ナイフの持ち替えがなければならないはずであり、この点で被告人の自白は矛盾があるというが、なるほどリ、ヌの創傷は、所論指摘のような形状を示している。しかし、被告人が父守を仰向けにして馬乗りとなったとしているが、馬乗りになっていても、上体をずらすなど、必ずしも父守と正対していたとは限らないし、馬乗りになって胸部のほか頭部も刺突していることからみても、被告人は自己の身体を移動させたり、前後左右に動かして父守の身体の右部位を刺突することが可能であったと認められるのであるから、被告人の自供と創傷の形状とが矛盾するとは認められない。また、リ、ヌの創傷は、刃の向きがそれぞれ逆になっていることから、ナイフを持ち替えて刺突したとみるのが最も自然であり、この点について被告人の自白では、そのようなことは述べていないからといって、その信用性を奪うほどのものとは認められない。

次に、側頭部にある前記ホの刺創について、所論は、ホの創傷は、仰向けに倒れている被害者の上に馬乗りになって登山ナイフで左側頭部を上方から下方に刺突することは床に妨げられて困難であって、むしろ、被害者の後面上部から刃を前にした逆手による攻撃がなされたとみるべきであるが、被告人の自白には、そのような供述は何らしてない、というのである。しかし、原審証人木村康の供述によれば「この場合には、これは額ですから、前方からでも、後ろからでもできるんですが、凶器そのものは後ろの方から前に向かっているということです。ですから、前面に、両者が相対峙している場合には、凶器を後ろの方から前の方に自分の方に引っ張ってくるような形で刺しているということです。それから、後ろに立っている場合には、これは前の方に突き出せばできる」と述べている。従って、前述のとおり被告人が父守に馬乗りになって右手に登山ナイフをもって正対している場合には右木村の供述の前段に該当する行為が可能であり、正にそのような方法によって生じたものと認めることができる。所論は、その場合床が邪魔になるというが、父守の顔が真上に向いている場合を前提とすればそうかもしれないが、そうであったとの証拠はなんら存せず、父守が顔を右横にし左側頭部を上にするか、それに近い態度をとれば可能であり、かつ自然である。結局、所論は採用できない。

更に、所論は、被告人の自白では、父守の肩を掴んで背後に仰向けに倒した方向に関する供述及び図面は、現場の状況と矛盾するというのである。なるほど、被告人が父守をそのまま後ろに真直に仰向けに倒したのであれば、父守の頭はテーブルの方に、足はテレビの方にそれぞれ向くことになるが、しかし、被告人の述べるところは、要するに、テーブルとストーブとの間に頭を壁の方に、足を流し台の方に向けて父守を倒したという趣旨に理解できるのであり、台所の家具調度の配置状況からしても、被告人が作成した図面のとおりに引き倒したと解するのが自然である。

しかして、本件では、被告人が犯行時に着用していた衣服、特にズボン及び白木綿ブリーフに付着しているおびただしい血痕は、被告人が父守及び母あき子に馬乗りになって攻撃を加えたことを物語っているもので、単に、被告人が原審公判廷で弁解するように、父守の死体を風呂場に運ぶだけでは決して右の各物件の血痕のように付着しないものであること、被告人の左小指の一一針縫合を要した創傷は、母あき子との登山ナイフの奪いあいを裏づけるもので、被告人の原審での供述でもそれ以外の合理的説明はなされていない。

(4) 両親の死体の遺棄について

父守及び母あき子の死体が市原市五井の岸壁沖で発見されたとき、両名とも普段着のままの状態であり、その死体を運搬し、遺棄するために使われたと推定されるタオルケット、毛布、麻紐、マニラロープ、ナイロンロープ及び自動車用ホイルは、すべて両親宅にあったものが使われていると認められること、及び両名とも同時期に両親宅から運び出されて右岸壁から投棄されたものと推認されることについてはすでに説示したとおりであるが、この点について被告人の昭和四九年一一月一四日付、同月一八日付、同月二五日付司法警察員及び同月二三日付検察官に対する各供述調書において、被告人は、昭和四九年一一月一日午前四時二〇分ころライトバンを運転して両親宅に行き、同宅風呂場浴槽内に入れておいた両親の死体を運び出し、右ライトバンに積込み、市原市五井南海岸の養老川河口公共物揚場第三岸壁に運んだうえ、同日午前五時三〇分ころ、同所から両親の死体を海中に投棄したとの自白をしている。

被告人の自供する父守及び母あき子の死体の搬出・投棄の方法は、客観的に認められる事実とよく符合し、特段不合理、不自然な点は見当たらない。

ところで、所論は、原判決が信用性を認めた被告人の自白には、死体搬出の動機、隠匿状況、屋内からライトバンへの搬出、ライトバン内の積載、投棄に関し多くの疑問があるというのである。

そこで、検討すると、

① 死体遺棄の動機について、原判決は罪となるべき事実において「両親を殺害後、その死体の処理に窮した結果」と認定しているが、本件は、被告人が予め両親を殺害し、死体をどのように処理するかまで計画して実行したものでないこと、また両親殺害後、被告人は自首等をする考えもなく、その場当たりの行動をとっていたことに照らすと、両親殺害後、逸早くその死体を処理しなかったことはそれなりに理解できる。このような被告人が、自己の犯行を周囲の人達に気付かれていないと知り、死体を両親宅の風呂場内に放置しておけば事件が発覚すると考え、その処理に困り、死体の遺棄を実行するに至ったとしても、何ら疑問とするに足らない。

② 死体の隠匿について、被告人の前掲供述調書によると、母あき子の死体次いで父守の死体を風呂場の浴漕の中に、何れも頭を下にして入れたと述べているところ、原裁判所の検証調書によれば、実験の結果、大人二名が浴槽に入ることが可能であり、その場合体を曲げなければならないが、死体の死後硬直が始まらない時期であれば、この姿勢も容易である。しかも、原審証人石田輝久生及び石田裕子の供述並びに両名の検察官に対する供述調書によると、両名は三一日両親宅内で両親の所在を探したが、他の部屋は全て見たのに、風呂場内は見なかったことが認められ、両親の死体が両親宅にあったとすれば風呂場内以外の場所には考えられない。また、一一月三、四日に行われた両親宅の検証時には浴槽内から血痕が発見されていないが、被告人の同月一八日付司法警察員に対する供述調書によれば、死体を投棄してから再び両親宅に帰り、浴槽を洗剤を使いタワシでこすって掃除したと述べており、浴槽内から血痕が発見されなかったとしても不思議ではない。要するに、父守及び母あき子の死体がすでに被告人以外の何者かによって運び出されていた可能性は証拠上認められない。

③ 死体の搬出についての自白の合理性に関しては、原判決が(弁護人の主張に対する判断)中五の「死体を遺棄する際の運搬方法及び重量について」の項で詳細に認定説示しているとおりであって、所論指摘のような疑問は何ら認められない。更に、付言すると、所論は、被告人の自白どおり両親の死体をライトバンの荷台部分に横に並べて積むことは物理的に不可能であるという。なるほど、死体の体躯を真直ぐに延ばしたままの状態で積むことを前提にする限り、ライトバンの荷台部分に積んでドアーを閉めることは物理的に不可能である。しかし、前記認定のように、両親の死体は、狭い浴槽内に逆さまの状態で入れられていたとすれば、当然その体躯は「く」の字状に曲がっていたはずである(母あき子の死体が発見されたときの状態は、体躯が曲がり、足をまるめた状態であった)。しかも、死体硬直が残っていたとしても、力を加えれば、多少の屈伸は可能であるから、幅一一三ないし一一七センチメートルの荷台内に横ないしほぼ横に入れることにより、両親の死体を一緒にライトバンに積むことは可能であり、加えて、ホイル等を全部座席の後ろに積むだけの余地も残されていると認められ、所論の指摘するような疑問は生じない。

④ 死体投棄に関する被告人の自白の信用性に関しては、原判決の(弁護人の主張に対する判断)中四「死体を縛った紐の結び方について」及び五「死体を遺棄する際の運搬方法及び重量について」の項に詳細に認定判示しているとおりであり、更に、所論に鑑み調査検討しても、被告人の自白内容が不自然、不合理であるとは認められない。なお、付言するならば、所論は、被告人が死体を遺棄した前記第三岸壁は、投棄時すでに薄明かりから太陽が差し始めた時間であって、人の視野に入る場所であるから死体を梱包し、海中に投棄するに適した場所ではなく、かかる場所に死体を遺棄したとする被告人の自白は不自然であるというのである。しかし、司法警察員作成の昭和四九年一一月二五日付実況見分調書によれば、右現場は、市原市五井先の国道一六号線から西方の五井南海岸及び旧日本カーフェリー市原営業所などに通ずる幅九・二メートルの産業道路を約四〇〇メートル入った地点の公共物揚場第三岸壁で、その付近一帯は工業地帯となっており、現場に最も近いのは丸善石油化学株式会社千葉製油所であり、また、現場南側五メートル離れた地点には、高さ五メートルから六メートルの砂山が四箇所あることが認められる。このような現場付近の状況、特に近くに高い砂山があって、現場を遮蔽していること、周囲は工場地帯であり、かつ、早朝であることからすると、人通りはなく、死体をライトバンから降ろし、シートに包み、ロープで縛り、ホイルを付けるなどの準備に多少の時間がかかるとしても、容易に第三者には発見される虞のない、格好の死体遺棄場所であるといえる。

また、所論は、死体投棄の時間や死体投棄をめぐる時間のうえで被告人の自白には疑問があるというのである。しかし、被告人の両親殺害後の行動の経過について、第一の項で客観的事実によって認定したところによると、被告人が一人になって、死体を処理するに適した時間として客観的に認められる時間帯は、一一月一日午前三時一〇分ころ三谷と一緒にホテル「トラベルロッジ」を出て、ライトバンで三谷を同女方まで送り、そこで別れてから、同日午前七時ころ被告人が両親宅庭先で「ふるさと」食堂の主人と会うまでの間であることになる。しかし、捜査官が、この時間帯に被告人が死体を処理したと自供させたとする何らの根拠もないし、それを疑わせるような、被告人の供述上の不自然、不合理性も何一つ見当たらない。更に、所論は、被告人が自供する一一月一日両親宅に到着し、五井海岸に両親の死体を投棄し終るまでの最長時間をとっても一時間四〇分であって、被告人の左手小指の負傷や疲労、睡眠不足などを考え合せると、被告人の供述するような死体搬出、運搬、投棄の連続的な行為は時間的に不可能であるというのである。しかし、原裁判所の昭和五〇年一二月五日付検証調書によると、両親宅から前記三号岸壁までの自動車での所要時間は、一三分であることが認められる。してみると、運搬時間を除くと一時間二七分もの時間が、死体搬出、遺棄等に使うことができたことになり、時間の点でも被告人の自白に疑問のないことは多弁を要しない。

三  被告人の公判廷における供述の信用性について

被告人は原審及び当審を通じて公判廷における供述では、被告人による犯行を否定し、父守は母あき子が殺害し、母あき子は被告人の最も親しい人が殺害したうえ、両親の死体を遺棄したが、それが誰かは言えないと主張するものであるが、その具体的な状況についての原審及び当審公判廷における供述は、一貫せず、また曖昧な点が多いが、その要旨は、「被告人は、昭和四九年一〇月三〇日午後四時三〇分ころに両親宅を出たが、途中でナップザックを両親宅に忘れたことと、両親に取上げられた自動車のことで話がついていないことを思い出して、午後五時過ぎ、再び両親宅に戻り、台所に入ると、父守が刺されてひっくりかえっており、母あき子が右手に登山ナイフを持って立っていたが、ヘナヘナと座りこんでしまった。被告人が母あき子から登山ナイフを取上げ、『どうしてこうなったの』と尋ねると、母あき子は『お前のためにした』といった。被告人は父守の死体を台所の真ん中に移動させ、頭についた血を拭き取り、死体を風呂場に運び、台所や風呂場前の廊下の血を拭き取った、その間、母あき子は台所の椅子に座ったままであった。その後、母あき子が着替えをし、被告人も着たものを脱いで着替えをした。被告人は母あき子がうっとうしくなり、その場から逃れて離れたいという気になり、最初姉裕子に電話しようと思ったが、三谷のところに掛けてしまった。母あき子は、裕子からの電話があって、従業員の給料の前渡しのことで、電話にでた父守と裕子との間にいき違いがあって、明日給料を持って行ったとき話すというようなことを言っていたので、被告人は『明日、華紋の給料日だから、給料を持って華紋に行き、給料計算が終ったら帰ってくる。』と言って、金庫の鍵を母あき子から受取り、金庫を開けて七五万円くらいを出し、そのうち五五万円を被告人が取り、残りを母あき子に渡し、母あき子に対し、父守の死体は海に投げ捨てれば分からないといっておいて、母あき子をそのままにして家を出た。」というものである。

しかし、被告人の公判廷における供述は、すでに認定した本件の客観的な事実と大きく食い違っており、これらの客観的事実を前提とする限り到底真実と理解することはできないものである。

更に、被告人は、原審公判廷では、母あき子が父守を殺害した経緯、原因について明確な供述をしていなかったのであるが、当審公判廷において、この点について次のように述べている。「昭和四九年一〇月三〇日夕方両親宅で、父守が被告人に対し三谷を誹謗したうえ、三谷のことを調べたとも言い、更に父守と仲の悪かった被告人の伯父で父守の兄にあたる佐々木髙盛は、お前にそっくりだといって、被告人の感情を非常に刺激し、お前みたいなものは俺の子じゃない、あいつそっくりだと言う言葉を吐き捨てるように言って、台所から店の方に出て行った。しばらくして母あき子が台所に入ってきた。母あき子は、被告人に対し、こんなもめごとばかりしていないで、もめごとを止そうと言い、次いで、台所のスチール家具の中から登山ナイフを出してきて、お前こんなもの持ってどうするんだと言って被告人を詰問した。被告人は、父守から三谷のことについて言われたことで頭が一杯で、父守がそこまで言うなら、母あき子に父守のそれまでの素行について告げ口めいたことを言ってやろうと考え、母あき子が同年の七月に入院したとき、七月末に父守が店を休んで温泉に行っており、それも一人で行くと言っていたことについて、母あき子に対し『あれは分かったもんじゃない』というようなことを言って、父守を誹謗する言葉を並べ立て、そして、父守が被告人に『お前は佐々木髙盛という人と顔も形もそっくりだ』と言った、と母あき子に言ったところ、母あき子が、『髙盛という人にそっくりだということはどういうことか』と被告人に言ったのに対して、母あき子を突き放すように、そう言ってるよ、自分で聞いてみたらいいじゃないかと言って、台所から外に出た。玄関脇の廊下を通って外に出ようとすると、母あき子が追ってきたが、母あき子の言葉を無視して外に出たが、被告人の言った言葉が母あき子が父守を殺害する原因になったかどうかは、母あき子から聞いていないので解らない。」

しかし、被告人と父守及びその後の被告人と母あき子の言葉のやりとりが、母あき子が父守をその直後に殺害する原因となったとするには、余りにも、内容が稀薄かつ奇異であり、両親の生前にそのようなことを疑わしめるに足りる客観的徴候は何一つ存在せず、かえって当審及び原審証人石田裕子の供述並びに同人の司法警察員及び検察官に対する供述調書によると、両親は、勤勉で節約家であり、夫婦力を合わせて事業を成功させてきたもので、夫婦喧嘩程度のことはするにしても、前記説示のように夫婦仲は至って良く、何処に行くにしても二人一緒であったし、同日も午後五時ころ、姉裕子が、「華紋」から両親宅に、翌三一日の従業員の給料支払のことについて電話し、両親とも電話口に出て話しているが、そのときの両親との会話では、平常と何ら変らない会話が取り交されていることが認められ、その直後に、母あき子が父守を殺害することは誠に唐突であり、理解に苦しむものであって、到底真実を語っているとは認められない。

更に、母あき子が父守を殺害した時刻には、被告人は、両親宅を出ていたが、父守が殺害された直後に再び両親宅に帰ったとの供述をしている。しかし、その時間については必ずしも明確に述べておらず、最も具体的な供述に従うと、被告人が父守と話しているとき、母あき子が外から都北運輸が「来ている。」とか「来た。」と父守を呼んだので、父守はしばらくして出て行き、その後母あき子が入ってきて被告人との間で前述のようなやりとりをし、被告人は両親宅を出たというのである。ところで、都北運輸の運転手石毛俊雄の司法警察員に対する供述調書によると、同人は八幡タイヤに同日午後三時半ころタイヤ修理に行き、最初母あき子に、次いで父守が代って修理をし、同日午後四時二〇分ころ終ったことが認められる。これによると、都北運輸のタイヤ修理が終った四時二〇分ころかその少し後位に、被告人が両親宅を出て行ったことになる(午後四時半ころ出て行ったとの被告人の原審供述もある)。一方、被告人が両親宅に帰ったのは、父守が殺害されたすぐ後、すなわち、午後五時二〇分過ぎであるということになる。そうすると、被告人は約五〇分間外出していたことになるが、被告人はその間に約五〇〇メートルの距離にある菅野酒店あたりで引き返したと述べているのであるから、通常の歩測で往復一五ないし二〇分ですむところの距離を約五〇分もかけて歩いたことになり、まことに不自然な供述というほかはない。

その他、被告人が左小指に負傷した切創についても、すでに説示したようにその弁解が転々と変っており、何ら理解できるような説明をしていない。

してみると、被告人の原審及び当審における供述は、内容それ自体不自然、不合理な点が多く、また、客観的に認められる状況と重要な点で矛盾し、到底真実を述べているとは認められない。

四  以上のとおりであって、所論について、仔細に調査、検討したが、原判決の各事実認定に所論のいうような事実誤認は認められず、また、所論指摘の被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書並びに被告人作成の申述書に所論のいうような訴訟手続の違反は認められない。それ故、論旨は理由がない。

第二量刑不当の主張について

所論は、要するに、原判決は、父守に対する罪について無期懲役刑を、母あき子に対する罪について死刑を選択している、しかし、本件訴因については、いずれも無罪と考えるが、仮にいずれかの訴因が有罪となったとしても、本件犯行の動機、犯行の態様及び犯行後の被告人の行動について、その外形のみならず被告人の内面の心情を深く洞察するならば、なお酌むべき情状が認められ、加えて、審理の長期化、被害感情及び本件での死刑判決の意義のみならず死刑制度そのものの意義等に照らすと、父守に対する罪については、無期懲役刑の選択を有期懲役刑、母あき子に対する罪については、死刑の選択を有期懲役刑の選択とするのが相当であって、原判決の量刑は重過ぎて不当であるというのである。

そこで、原審記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調の結果を併せ検討し、以下のとおり判断する。

本件犯行は、予め計画し、実行されたものではなく、犯行直前の被告人と父守との言い争いで、三谷との交際を誹謗され、あまつさえ、同女が特殊浴場の接客婦として働いていたことに触れられて、父守に対する憎しみと、憤りから父守を殺害するに至ったものであり、母あき子に対する殺人は、父守殺害を見て被告人を咎めるのでなくて、かえって、被告人の感情を静めようとして、迎合するような態度を示したのが許せないとして、母あき子をも殺害するに至ったもので、いずれもその場で咄嗟に生じた犯行であると認められるのであるが、しかし、本件犯行は、その背景として、被告人の両親と被告人との間に長年に亘り埋められない溝があり、両者の間には本件犯行前日の一〇月二九日夜「華紋」における被告人と両親、特に父守に対し暴力を振るうというところまで発展した深刻な対立があったことを無視することはできない。しかも、この親子の対立は、確かに、誠実と勤勉によって財をなし、仕事を軌道に乗せてきた両親の生活倫理観を被告人に押付けた嫌いはあるにしても、それは、苦しい時代を誠実に生きてきたものの誰もがもつ感情であって、特別両親の頑迷、無理解として非難すべきものではない。子の将来を慮かり厳しい態度に出ざるを得なかった両親の涙の真情を、女に魂を奪われ盲目的閉鎖的な心境に沈澱していてそれを悟ることのなかった被告人に大きな非がある。もっとも、被告人の両親に全くの落度がないともいえない。それは被告人の生活態度を心配して、小言を言い過ぎ、半面、可愛さの余り、身分不相応な自動車を買い与えるなど、必要以上に甘やかして育てたため、被告人をして両親に対する畏敬の念を忘れさせ、かえって恣意に走る考えを増長させてしまい、そのことが三谷に現つをぬかして入揚げている腑甲斐ない息子を見て思い余って強く叱責し、懲らしめのため被告人から車を取上げ、親子の縁を切るなどと厳しい態度を示したときに、被告人をしてその真情によって覚醒し、自省自戒の挙に出るよりは、かえって反発を抱かせる性格を形成させていた一面も否定できない。しかし、被告人は、十分社会に伍していけるだけの優良な能力や素質及び健康な身体を両親から授かり、春秋に富んでいる身でありながら、自己の将来に対するはっきりした進路を見付けるでもなく、地道な労働を嫌い、素行の悪い友達と交わり、内縁の夫のある女性との交際に身を沈め、生活の破綻をきたしている吾が子被告人を見れば、その将来を危惧懊慮し、被告人の素行を心配するの余りに、その心に涙を溢えて言葉では厳しく叱責するのは親なればこそであるのに、両親の真情に心を開くことなく、かえって憎悪を抱き、その憎悪を憤激に高めて、前後の見境いもなく短絡的に本件両親殺しという重大犯行に走った盲目的自己中心的な考えと態度に本件の重大な原因があるというべきである。

本件の犯行態度は、右のような動機からすると全く異常というべく、すでに述べたように、両親に対し、登山ナイフでその胸腹部や頭部を滅多突きにし、父守には約一一箇所、母あき子には二十数箇所にも及ぶ正に切り刻んだ刺切創を与え、犯行現場は悽絶な血の海と化し、惨状目を覆うばかりであり、特に注目すべきこととは、単なる殺害を越えた執拗かつ冷酷無残な攻撃をもって殺害していることである、とりわけ、母あき子の頭部に対する一一箇所に及ぶ集中攻撃は、被告人の偏執かつ残忍な性格を如実に表わすものであって、到底血を承けた子供が両親に対してなした行為かと、人間存在の根源に挑戦した人間にあらざる者の行為としかいいようのない衝撃と戦慄を人間に与えた犯行態様であるといわざるをえない。

また、犯行後の被告人の行動についても、両親を殺害した直後、被告人は、足にべったり着いた血の乾かないうちに、母あき子が首に下げていた金庫の鍵を奪い取り、金庫内にあった多額の現金を手にするや、両親の死体を浴槽内に放置したまま逃走し、数時間後には三谷を呼び出し、同女を伴って飲食店を飲み歩き、翌日は、奪った金員で借金の返済をしたうえ、平然と姉裕子らのいる「華紋」に姿を現わしていること、その後も三谷と遊興に耽り、両親の霊に対する一毫の自責の念をも示さず、姉夫婦や隣家の人達が被告人の犯行に気が付いていないと知るや、犯行を隠蔽するため、冷徹に両親の死体を遺棄することを決意し、五井海岸の岸壁から、両親の死体に錘を付けて、晩秋の冷たい海中に投棄するなど、人の子の情、両親に対する情愛が少しでもあれば、このような惨絶かつ非情な行為はできないはずであり、被告人の冷酷、残忍な性格の露呈というほかはない。更に、公判廷でも、遂に被告人の口からは、犯行は明々白々であるにかかわらず反省悔悟を現わす一斑の動作一片の言葉すら聞くことができず、自己に一端の責任があるといいながら、核心部分については、母あき子や自己の親しい者の犯行であるとして、責任を他に転嫁する卑怯未練な態度に終始している。これは、あえて善解すれば、自己の犯した罪の重大さによって受ける衝撃のため、自責に耐えられず、自己の罪を心理的に非現実化し、自己の生存を防衛しようとする心理によるものとも解されないわけではないが、やはり冷酷残忍で自己中心的な心情の現れというべきであって、誠に両親のため遺憾の極みであるといわざるを得ない。

被害感情についてみるに、所論は、被告人の不行跡を愛情をもって厳しく叱責してきた両親は、被告人に一人前の人間に成長していてほしいとの願望を抱いているにちがいなく、そのような両親であってみれば、仮に本件のような罪を犯した被告人に対しても、決して死を望むことはないはずであるというのであるが、被告人と被害者らとは血を分けた親子の関係にあるもので、我が子の手にかかって突如としてその生命を奪われた両親の気持は、確かに複雑であろうけれども、自己の立場を正当化し、自己を防衛するためには、両親すらも非難する被告人の自己中心的な態度は、亡き両親の宥恕するところではなく、両親の霊いまだ愁悶の裡に慟哭を続け、坤天に徘徊浮遊して安住なきを悲しむものである。また、一瞬にして両親を奪われた被告人の姉裕子の感情も複雑であり、同女の当審公判廷での供述では、生前の両親の被告人に対する接しかたを非難し、被告人を擁護する発言もあるが、同女に与えた精神的、物質的な苦痛は生涯拭いきれないものがある。してみれば、本件による被害者及びその遺族に与えた影響は、深刻、かつ、重大である。また、稀にみる残虐非道な犯行によって、両親を殺害し、あまつさえ、その死体を海中に捨てて顧みない本件犯罪は、単に、家庭内の悲劇にとどまらず、本件が社会に与えた聳動衝撃も大きいといわねばならない。

被告人は、本件犯行当時二二歳の青年であり、社会的経験に乏しく、情緒も十分安定していない時期にあったこと、両親の生きてきた世代と、被告人の世代とでは、その生活感情の隔絶があったこと、素行に問題があったとはいえ前科前歴がないことなど、被告人のために酌むべき情状も認められる。

しかしながら、本件は、両親に対する殺人、死体遺棄という重大な犯罪であり、動機にも酌むべきものが少なく、その犯行の手段方法は執拗、かつ、残忍であり、特に、母あき子に対する殺害行為は、原判決も指摘しているように、被告人のために酌むべき一掬の情状も認め得ないこと、その他犯行後の被告人の行動等から窺える残忍、非情な性格、被害感情および社会に与える影響等に鑑みると、被告人のために有利な諸般の情状を十分斟酌しても、被告人の刑事責任はまことに重大であり、かつ、刑罰の均衡や一般予防の見地からも極刑に処することはやむを得ないといわざるを得ない。

もとより、死刑を選択することは、慎重のうえにも慎重でなければならないことは、所論のいうとおりであるが、本件で、被告人の果たす責任として原判決が死刑を選択した刑の量定は、最高裁判所判決(昭和五八年七月八日第二小法廷判決・刑集三七巻六号六〇九頁)の示す基準に照らしても、けだしやむを得ないものであって、これが重過ぎて不当であるとは認められない。論旨は理由がない。

よって、刑事訴訟法三九六条により本件控訴を棄却し、当審における訴訟費用は刑事訴訟法一八一条一項但書によりその全部を被告人に負担させないこととし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 石丸俊彦 裁判官 新矢悦二 裁判官髙木貞一は転補のため署名押印できない。裁判長裁判官 石丸俊彦)

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